先日、洗濯物を干していたら靴下の片方がないことに気づいた。
洗濯機の底を見ても、カゴを見ても、ない、ない、ない。
二階ベランダに運ぶときにカゴから漏れ落ちたかなと思って改めて動線を後追いしたが落ちてない。
最近、こんなことがやたら多い。
それだけ耄碌したんだな。年だよ、年。あんた自覚が足りないよ。
こんなことに時間を費やして、もったいないと思わない?
それもそうだな。まあそのうち、どっかから出てくるだろう。
くらいに思っていたら、出てきた。
一緒に洗ったウインドブレーカーの裾にぶら下がってた。
ないと諦めていたものが予期せずひょいと出てくる。そのときの嬉しさといったらない。あるはずのものがないことを悔しがらずに、ないはずのものが出てきたことに対する喜びの方が強い。
なぜだろう。それを突き詰めるのが「学問」で、突き詰めないとありふれた日常茶飯事に終わる。そうして人間は「学問」という言葉の響きに弱い。
さて、人間には寿命がある。どんなに長生きしたくたってある程度まで生きれば死ぬことになってる。そんなのいつ誰が決めたんだといっても昔からそう決まってる。
だから、なぜ人に寿命はあるかなんて調べたって詮無い。よしんば判ったところで何になる? 何にもならない。それより、人間には寿命があると自覚し何をして「死ぬまで生きる」かを考えた方がいい。誰のために? もちろんみんなのために、ではなく自分のために、さ。
【きょうの一枚】近道階段のハナニラ(花韮)。
可憐できれいな花なのに「ハナニラ」とは如何に。葉っぱが細く、傷つけるとニラのようなにおいを発するのでこの名があるという。もっとお洒落な名前をつけてやればいいのに。
近所の人が近道に使うような階段にも平気で咲く。丈夫なんだな。踏まれても踏まれても自力で立ち上がる根性花です。
【書】「鞭」ベン・むちうつ(No.1,707)
革と、音を表す便(ベン。うつ意)とから成る。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)
【ディジタル画】『坊つちやん』その66(No.1,147)
東京で暮らす清に手紙を書こうとするが、坊つちやんはどうも手紙を書くのが苦手らしい。筆と巻紙を抛り出して、ごろりと転がる。それでも気にかかるのは清。で、清のことを考える。
「かうして遠くへ来て迄、清の身の上を案じてゐてやりさへすれば、おれの真心は清に通じるに違ない。通じさへすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮してると思つてるだらう」。
そりゃね、「便りのないのはよい便り」と言うけど、ちょっと坊つちやん、手紙を書けないからって思うことが勝手すぎません?
でも、坊つちやんにとって清は、そういうわがまま勝手が言える存在なんだろうね。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.426)
明治の錦絵。
平安貴族の男性が庭に降りて優雅に扇子を広げてる。津軽に生まれ育った人からすれば、所詮住む世界が違う人のように見えます。
【タイムラプス】令和6年3月10日(日)6:03〜7:33の伊豆長岡の空。22秒。
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