文芸誌を読みながら晩酌を楽しんでいたら、生足をテーブルの足にしこたまぶつけた。
「うお〜っ、うぎゃあ」。
そんな時はあたり構わず声を張り上げる。カミさんがいるときは声を張り上げない。ひたすら痛みが鎮まるのを静かに待つ。
なんで独りの時だけそうするのだろう。いろいろ考えたけど判らない。
しまいには、「独り住まいの時はそうするもんだ」と自分で勝手に思い込むことにした。
お前は昔からそういう奴なんだと納得しようとしても納得できないものは納得できない。
世の中にはそういうことがごちゃまんとある。人に気を遣って暮らすなんて、「ビッグコミック」連載の漫画じゃないけど、「つまらん」。
吠えたきゃ吠えるがいいさ。我慢することはない。
最近そう思うようになった。
そう思うようになったってえことは、こりゃ老い先長くないな。
「雪国の春」を知りたくて、陸奥新報コラム「冬夏言」を覗いてみた。
雪国の春は汚い。雪国で生まれ育った身からすればそういう印象だ。
真っ白な雪で覆われた下には、ゴミの山が埋もれている。
冬の間は純白の雪に覆われて見えないが、春になって雪が溶け出すと、隠れていたものが地表に顔を出す。
地面は雪解け水が染み込んでいつもべちょべちょ濡れている。だからゴム長靴を欠かせない。藁履じゃダメだ。泥濘をどかどか歩くには長靴に限る。晴れた日も長靴を履く。
春は、待ちに待った季節だけど、汚い。雪の下から年末年始のゴミがわんさか出てくる。
そんな時、雪解けで増水した小川の脇に猫柳を見つけたりするとホッとする。あの、銀白色のふわふわした花穂に頬擦りすると、ようやくあったかい春が来たんだなあと実感する。そんなひと時が愛おしい。
伊豆で猫柳を見たことはない。温暖の地にはないのかもしれない。
温暖とはいえ吹く風はまだ冷たく、春がそこで足踏みをしているような感じだ。
でも、これから確実に暖かくなる。心配いらない。その暖かい日の訪れをじっと待つことにしよう。冷酒をちびちび呑りながら。
【きょうの一枚】ローカルいずっぱこ電車。
夕方の買い出しに出たら坂下で踏切に捕まった。上りか下りか。矢印の表示がないから判らない。
「三島」。あっ、上りだ。
ここにもローカルな時間がゆったり流れている。
【書】「闌」ラン・てすり(No.1,683)
門と、音を表す柬(カン。ランは変化した音。さえぎる意→閑)とから成る。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)
【ディジタル画】『坊つちやん』その42(No.1,123)
温泉に浸かったら、赤シャツがマドンナを連れて川土手を歩いているのに出くわした。
「(赤シャツと)喧嘩をしても、回向院の相撲の様な心持のいゝ喧嘩は出来ないと思つた」坊つちやん。やっぱり坊つちやんは、早く松山を去って東京で暮らす清の元へ帰りたかったんだ。
「回向院」といえば鼠小僧次郎吉の墓がある寺だ。全集注解によると、「東両国(今の墨田区)にある寺院で、明和五年からここで勧進相撲が興行されはじめ、……」とある。旧国技館の隣にある寺院のようだ。けど、行ったことない。
で、今回から少しばかり、回向院で取っ組み合いをした相撲力士を浮世絵風に描いてみることにした。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.403)
明治の錦絵になっても、日本髪を丁寧に描いている。これも浮世絵の力だ。
【タイムラプス】令和6年2月15日(木)6:10〜8:22の伊豆長岡の空。32秒。
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