【きょうの一枚】甘納豆。
これ一個48円は安いと思って買った。
小さい頃、魚屋兼駄菓子屋に小銭を握って買いに行った。それを思い出して、つい手を伸ばした。が、三角のプラ袋だったかどうかまでは覚えていない。
店の思惑としては節分に撒く豆のつもりで並べたらしいが、私は撒くというよりも食べるモノとしてしか目に入らない。食い意地が張ってるわけじゃないが、子どもの時の記憶は食べることしか頭にない。
「鬼はそと、福はうち」というのは、食べる前に唱える儀式みたいなものだという捉え方をしていた。大人になってから柊の枝に鰯の頭を突き刺して軒先に吊るすとい風習があることを知ったけど、そう言われても、節分には豆を食うということしか記憶にない。だから、庭に柊が植わってあっても、それが魔除けの飾りになるとは露思わなかった。
【書】「冀」キ・こいねがう(No.1,665)
頭飾りのある大きな面をつけて鬼神の姿をした舞人のさまにかたどる。借りて「こいねがう」意に用いる。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)
【ディジタル画】『坊つちやん』その24(No.1,105)
イナゴ騒動を起こした寄宿生の処分についての会議(続き)。
教頭の赤シャツが云う。
「生徒があばれるのは、生徒がわるいんぢやない。教師が悪るいんだと公言して居る。気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんださうだ」
坊つちやん先生は、赤シャツの言い分をこう受け取る。
「自分が悪いのではない、悪いのはイナゴを布団に入れた生徒だ」という論理。騒動の原因を作った方を一方的に悪者扱いにする。この論理が今の世を席巻している。
自分が悪いと思うなら自分は教師をやめる。イナゴ騒動を起こした寄宿生が悪いなら、寄宿生が学校をやめる。坊つちやん先生の論理は恐ろしく単純明快だが、世の中はそう簡単でもない。
障がいを持つ子に手を差し伸べるのは当たり前な社会のように言われるけど、果たしてそうだろうか。自分の思う通りにならないこともたくさんあるんだということをもっと知らしめる必要があるのではないか。
障がいを持って生まれた孫を見るたびに、ふとそういう思いに駆られたりする。
なかなか坊つちやんのように簡単には割り切れない。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.385)
江戸の変体仮名「を」の部が終了したところで単体も終わり。これからは挿絵に使われた連綿を模写していく。
きょう(1/28)は、藤沢の棒端の茶屋で、団子を食する弥次喜多。
賛は「此ごろのひよりもさくや花の旅 いち女」。「いち女」は『戯作者考補遺』に一九門人中「大原市女」として見える。
明治の浮世絵(錦絵)を追っかけてる。
江戸の浮世絵ももちろんいいけど、明治の浮世絵(錦絵)もなかなかのもの。
描きながら、夢二だったらこう描いたろうな、夢二だったらこう描いたかもしれないと、どんなふうに描いても竹久夢二がチラついて仕方がなかった。
【タイムラプス】令和6年1月28日(日)7:06〜10:41の伊豆長岡の空。26秒。
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