漱石の『坊つちやん』はこれまで何度も映画化された。それで、細部まで知っているつもりでいたが、映画化(アニメ化)することによって随分監督の思惑が反映されることに改めて気付かされた。
そんな監督の中で原作にいちばん忠実に映像に残したのが山本嘉次郎監督だった。
「坊つちやん三」の原作はこうなっている。
「翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑つた。おれは馬鹿々々しいから、天麩羅を食つちや可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、然し四杯は過ぎるぞな、もし、と云つた。」その後、「おれの銭でおれが食ふのに文句があるもんかと、さつさと講義を済まして控え所へ帰つて来た」と続くが、引用が長くなるからこれくらいにする。
この箇所を山本監督は丁寧に咀嚼している。監督の力量はこういうところに現れる。
この映画は1935年の作。ちなみに坊っちゃん役を丸坊主の宇留木浩、マドンナ役を夏目初子が演じている。
もう一つ。
浮世絵を追いかけていたら、東海道品川宿に「鈴ヶ森」刑場があったことを知った。この刑場は江戸三大刑場の一つに数えられ、八百屋お七が処刑された場所としてその名を知られる。
八百屋お七の話は井原西鶴によってたっぷり脚色され『好色五人女』に収録されてある由。『好色五人女』は未読の浮世草子。
Wikipediaの著述によると、「お七の家は天和の大火で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店は建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた」。というのだが、実はお七の史実はほとんど判っていない。
そんなこんなが、絵を描くという趣味を通じて教養として蓄積されるのが何より嬉しい。
老い先長くないのに教養を蓄積して何が嬉しいのかねえ。
【きょうの一枚】「転倒予防の生活上の対策」講座の画像を下地に描いた。
予定では講座の中で「片足立ちテスト」をやることになっていた。でも、実際には時間がなくてやってない。足指の間に手の指を挟み入れて揉む運動をやっただけ。
講師の先生は、これを入浴中か風呂上がりにやることを勧めていたが、痛くて寒くてできっこない。講師の先生の奥さんの化粧バックからくすねてきたというハンドクリームを手に塗ってマッサージしただけ。それだけでも効果があった。
が、やる気は全くない。痛いし、寒いし、ハンドクリームを買う金もないし。諦めて長生きしないことにした。
次号の広報に載せるつもりで手書きした。たったこれだけで広報を手にする人の心がほっこりするんだったらお安いご用だ。
【書】「暦」レキ・こよみ(No.1,655)
日と、音を表す厤(レキ。次々に経る意→歴)とで、日月の歩み、「こよみ」の意を表す。常用漢字は省略形による。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)
【ディジタル画】『坊つちやん』その14(No.1,095)
江戸時代後期に活躍した画家に二人の「華山」がいる。渡辺崋山と横山華山。そのうちの横山華山の三猿のうち、耳を塞ぐ猿を描く。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.375)
江戸の変体仮名第38弾。「よ」の部。
江戸時代、江戸には三大刑場があった。日光街道入口南千住に「小塚原」、中山道入口八王子に「大和田」、そして東海道入口品川に「鈴ヶ森」。天和の江戸大火を招いたとされる八百屋お七は「鈴ヶ森」で処刑された。八百屋お七は、当時数えの16歳だったという。
【タイムラプス】令和6年1月18日(木)6:41〜9:01の伊豆長岡の空。37秒。
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