いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

歳晩や移動スーパー山の路(あ) 

【きょうの一枚】移動スーパーも年末店仕舞い、と思いきや。

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 「年末年始も休まず営業します」ですって。

 みんながゆく年を惜しみ新しい年を迎える喜びに浸っているのを横目に、何のそので働きまくりです。頑張りますねえ。

 正月くらい、ゆっくり休めばいいのに。

 明日があると信じていた若い頃は、新しい年も当たり前のように来ると思ってた。

 でも、こうして年を取ってからは、新しい年が来ないかもしれないと思うようになった。

 それは寂しいことだけど、仕方のないこと。

 だって、人間には創造の神が与えてくれた寿命というものがあるんだもの。

 どんなに生き延びようと頑張ったって、いずれは例外なく赤紙を受け取ることになる。私は受け取りません、と言ってる人にももれなく配られる運命の札。それが赤紙だ。男と生まれたからにはそれを受け取ってこの世に別れを告げる。

 戦時中は有無をいわさず赤紙が舞い込んできて、それを受け取って戦場へ赴いた。自分の運命を紙切れ一枚に託した時の思いはどんなものだったんだろう。

 それに比べると、私は長く生きすぎた。少なくとも赤紙をもらった人の倍以上は人生を楽しんだ。それで十分ではないか。

 

【書】「彊」キョウ・つよい(No.1,624)

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 弓と音を表す畺(キョウ。つよい意→強)とで、強い弓の意。ひいて「つよい」「つとめる」意、借りて、さかいの意。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)

 

【ディジタル画】『道草』八十五(No.1,064)

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 「細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼等の庭に霜柱の錐(きり)を立てやうとしてゐた」。

 人事と情景が混沌とマッチしていて、うまい自然描写だと思います。

 人事は人事、自然は自然と分けて描写するより、遥かに技巧的です。こんな表現、ああだこうだ一日頭をひねくり回しても出てこようはずがない。結局は才能の問題でしょうか。

 「細君を笑ふ健三はまた人よりも一倍寒がる男であつた。(中略)彼は已むを得ず書斎に炬燵を入れて、両膝から腰のあたりに染み込む冷を防いだ」。

 『道草』が漱石の自伝的小説であるならば、健三は漱石の分身だといえる。こうみると、漱石先生も相当な寒がりだったみたいですなあ。

 かくいう私も、雪国生まれ雪国育ちなのにかなりの寒がり屋。

 今年は暖冬だというのになんだこの寒さはと思うくらい寒がってます。

 ところで、明治時代の暖房はどうなっていたんでしょうか。

 それ以前も、ストーブなどなかったでしょうから、相当寒かったんでしょうね。

 寒さに凍えながらじっと春を待つ気持ち、何となく判る気がします。

 

【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.343)

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 江戸の変体仮名第7弾。「き」の部。

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 今回も、弥次さん喜多さんのすったもんだ喜劇をアップします。描く励みとして。

 

【タイムラプス】令和5年12月18日(月)6:23〜10:48の伊豆長岡の空。32秒。

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