いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

短日や裸電球眩しくて(あ)

 昨日の宿酔が祟って、食欲がない。

 朝から何も食わず一日を過ごした。

 窓を叩く木枯らしの音を聞きながら、ずっとベッドの布団にくるまっていた。庭に積んである薪の量が心細くなってきたのでそうした。まだ新年を迎えてないのに、とほほ。

 先日、毎年お願いするるピザバス屋さんに薪を運んでくれるよう頼んであるが、その後なんとも言って来ない。

 自分の山から伐り出し、トラックに積み並べて、天城から運んで来る。それを一人でやる。

 一人じゃ大変だ。いいよ、運ぶのは都合のつく時で。くれぐれも無理しないように。こっちはなんとかなるから。何ともならないけどなんとかするから。

 と、ベッドでうとうとしていたら、図書館から借りた本の返却日が今日だったことに気づいた。気づいたけど体が言うことを聞かない。やめた。明日にする。あれ? 明日は月曜で休みか。明後日にする。あれ? 明後日は夜19:00〜市役所で会合か。なかなか体が休まらないのう。 

 

【きょうの一枚】裸電球。

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 これから夜になろうという時間帯にトイレの電球が切れた。

 まだ明るいうちにと思って何でも屋スーパーにバイクを走らせたが、戻って来た時は車庫がセンサーで明るく照らされるほどになっていた。切れた古い電球はスーパーのスタッフが引き取ってくれた。

 懐中電灯で照らし新しい電球を取り付ける。スイッチを入れたら明るく灯った。これで夜中のトイレも大丈夫。

 

【書】「禦」ギョ・ふせぐ(No.1,623)

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 御(ギョ。もと、たたりをはらう祭祀)に示を加えて、災いをふせぐまつりの意。ひいて「ふせぐ」意に用いる。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)

 

【ディジタル画】『道草』八十四(No.1,063)

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 この段の冒頭に「退屈な細君は貸本屋から借りた小説をよく床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしい其表紙が健三の注意を惹く時、彼は細君に向つて訊いた。『斯んなものが面白いのかい』」とある。

 「其表紙」を、「黄表紙」と読み間違えた。

 「黄表紙」とは、もちろん江戸時代に流行した絵入小説本のことで、表紙が黄色だったから黄表紙本と呼ぶ。私はこの黄表紙本を、今の大人用コミック誌に価するものとととらえている。

 それで現在、『東海道中膝栗毛』を追っかけている。

 これもまた黄表紙本の一つ。文章は十返舎一九の自作であり、絵も一九の自画である。私がこの世に残そうとしているのも、自分で文章を書き、自分で挿絵を描いたものである。小説とも違う、漫画とも違う。なんていえばいいんだろう。まだ分業する前の、同じ作者による文と絵が混沌とした世界。あえて言えば「大人の絵本」に近いかな。

 絵と文が分業する前は、歌麿も北斎も、黄表紙本の挿絵画家であった。だから、何。

 

【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.343)

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 江戸の変体仮名第弾6。「か」の部。

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 弥次さん喜多さんのしでかすドタバタ喜劇は、やはり絵がないと寂しい。

 

【タイムラプス】令和5年12月17日(日)14:56〜16:50の伊豆長岡の空。28秒。

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