能登半島地震義援金募金箱を作ってくれた人に、かかった材料費を渡しに行った。
その足で、集まった義援金をどうすればいいか市役所に相談に行った。そうしたら、市役所には入り口正面に募金箱が置かれてあって、それには締切日付も記されてあった。
その下の電話番号があって、そこに電話したら、聞き覚えのある声で「手続きは締切後でも構わない」と言われた。
よかった、これで定例総会に間に合う。ただ、募金が揃ったら連絡してくれるとありがたいとおっしゃっていたので、ではそうすると伝えておいた。
夕方、雨が小降りになったので文芸誌今号を買いに書店に走った。そうしたら、目当ての文芸誌の手前に「芥川賞」の特別号が二つの山になって平積みされていた。やっぱり「芥川賞」は売れるんだ。
それを横目で見ながら人気のない谷間の方の文芸誌を手に取る。改めて闘志が湧いた。
「芥川賞」、何するものぞ。
どっこい、「直木賞」だってあるんだぜ。
【きょうの一枚】動力にガスを利用するエアコンの外器本体。
ガス会社に連絡がつき次第、冷媒ガスを抜く作業をすることになっていた。
担当者は、ガスを抜く作業は午後だと言っていたが、午後、公民館に行ったら作業はすでに終わっていた。雨で午前中の予定がなくなったのかもしれない。
本体撤去作業は来週になってからやる予定。クレーン車で釣り上げるのだそうで、かなり大掛かりな工事になりそうだ。雨が降らないことを祈るばかりである。
【書】「舊」キュウ・ふるい(No.1,690)
萑(冠毛のある鳥)と、音を表す臼とで、みみずくの意を表す。借りて「ふるい」意に用いる。常用漢字は俗字による。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版)
【ディジタル画】『坊つちやん』その49(No.1,130)
菅原道真。
『坊つちやん』には、「太宰権帥でさへ博多近辺で落ちついたものだ」と出てくる。
英語のうらなり先生は日向の延岡に転任することになった。教頭・赤シャツの策略である。
太宰権帥(菅原道真)は平安時代の貴族で、忠臣とし名高く宇多天皇に重用されたが、のちに都を追われ太宰権帥(太宰府の長官に代わる次官)として九州で命を落とした。
菅原道真は現在も学問の神様として崇め奉られるが、本当のところは、当時の政略に邪魔だったから左遷されたのではないかと見ている。どの時代でも、意に沿わない人はハブられる運命にあるのだ。
うらなり先生の場合はどうか。菅原道真のように怨霊となって呪わないまでも、婚約者のマドンナと別れ住み慣れた故郷を離れることになった無念はあったかもしれない。
しかし、うらなり先生が延岡に赴任することになったのは赤シャツの知恵だと知ってもどうにもできない。ましてや、自分が松山に赴任することになったことでそうなったことについては露も悪いと思っていない。自分は何も悪くない、悪いのは教頭の赤シャツだと思っている。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.410)
明治の錦絵。
長い髪の毛を描くのだけで2時間かかった。ふう、疲れた。
【タイムラプス】令和6年2月22日(木)7:05〜9:41の韮山方面の雨空。39秒。
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