今日(8/5)は夏祭り本祭。前夜祭を思い切りカットし本祭一本に絞ったけれど、果たしてそれで良かったかどうか。他にやりようがあったかもしれないしこれしかなかったかもしれない。
昔の祭りを知っている人にとっては消化不良だっただろう。焼きそばもない。焼き鳥もない。カレーもない。フランクフルトもない。あるのは「かき氷」だけ。腹の足しになるものが一つもない。これで祭りといえるかと言われればぐうの音も出ない。
でも、これからの祭りは、金をかけないで楽しめるものになっていくと思う。そういう意味では不平不満は多々あろうけれど、一つの地元の祭りのありようを示せたのではないかと思っている。
そりゃ、金をかければいろんなことができるさ。それは判っている。判っているけれど、でもお金をかけないでいろんなことをしたい。そのために必要な工夫は何か。それをこれから模索し、新しい夏祭りのあり方を作り上げていきたい。
【きょうの一枚】祭りのフィナーレ・親子花火大会。
お祭りに地元高校郷土芸能部に和太鼓演奏をお願いした。観客席が閑古鳥だったらどうしようと心配したが、それは杞憂だった。演奏者の熱気と観客の熱気が一体となって会場はむんむんむれむれあついあつい。
素晴らしい盛り上がりだった。和太鼓演奏の皆さん、感動をありがとうございました。生の演奏を堪能できて感無量でした。
祭りの終わりは親子花火大会。コロナの濃密接触が懸念されたが、参加者の熱意がコロナに打ち勝った。そんな感じだ。
花火の煙がもうもうと立ち込める中、とどこおりなく全てのプログラムが終了し、祭りはお開きとなった。前回に比べて盛り上がったかどうかは判らないが、どんな形であれ祭りが無事できたことは何より。お金をかけないでやる新しい夏祭りのありようが少しだけ見えた気がした。
【書】「機利」キリ(No.1,509)
「機会をとらえて利益を得ること。」(『旺文社漢字典第二班』)
「機」は、幾(キ。はたの意)に木を加え、幾と区別して、おもに「はた」の意。ひいて「からくり」の意を表す。
「利」は、禾と刀とで、いねを鋭い刃物で切る意を表す。転じて、刃がよく切れる、鋭い意、便利・利益の意に用いる。
【ディジタル画】『彼岸過迄』須永の話十一(No.949)
ここに紹介された、イタリアの小説家・ダヌンチオと一少女との話が面白い。
「ある時ダヌンチオが招待を受けてある会合の席へ出た。その彼が自分のハンケチを足元に落とした。が、それに誰も気づかない。すると、若い美しい女が一人そのハンケチを床の上から取り上げて、ダヌンチオの前に持って来た。ダヌンチオは謝意を述べ「貴方のにして持って居らっしゃい、進上しますから」と言った。少女は一口も答もせず黙ってそのハンケチを指先で摘んだまま暖炉の傍まで行っていきなりそれを火の中へ投げ込んだ」
須永は、そのイタリアの若い女性と千代子と重ね合わせてみた。若いイタリア女性が千代子だったら、千代子はどういう行動をとっただろう。
【昭和の風景】229
「蒲原」白黒。
あたり一面真っ白な雪景色。それはそれはたいそうきれいだが、雪の下に埋まっている大量のゴミを思うと素直に喜べない。
春先に雪が溶けると、雪に隠れていたゴミがドバッと出てくる。それを知っているから、真っ白な雪景色は素直に喜べない。
これは雪国に生まれ育った人だけが持つ悲しい性です。
【タイムラプス】今日(8/5)は夏祭り本祭で朝からずっと飛び回っていた。それで、タイムラプス撮影ができなかった。たった1時間半の撮影時間も取れないのか。そう、取れなかったんです。