【きょうの一枚】ポータブル蓄音機。
今日は重鎮の骨董コレクション展示会。
階下和室二部屋の仕切り襖を取り払って一部屋にし、中央に座卓を据えて喫茶コーナーに仕立てた。部屋隅に短脚テーブルを並べ、そこへ重鎮がこれまで蒐集した骨董品を乗せていく。
広げられた蒔絵日本地図で私の故郷を探すと、「安左虫」という地名がやっとこさ見つかった。そのまま伊豆半島に目を移すと、仁田、韮山に続いて「戸田」の地名が見える。金山の「土肥」はない。江戸時代、戸田は金の採れる土肥以上に幕府にとって重要な地位を占めていたのかもしれない。
和室テーブルには、江戸時代使われていただろう行燈、蝋燭燭台、囲炉裏鍋、水洗トイレがなかった時代の手水鉢、ぜんまい仕かけの柱時計、数字のない手回し黒電話、松潤が「どうする家康」でごろごろ回していた薬研、木片がゆっくり動いてとまった蝿を退治する和製ハエ取り機、「ジャパン」が長四角に描かれただけの地球儀(いくらなんでも長方形はないだろう)、ブリキのおもちゃ、などなどが並べられた。
それらを眺めながら淹れたての緑茶を啜り重鎮お手製の和菓子をいただく。お宝に囲まれていただくお茶はなんとも格別なまろやかさで、特にご高齢者には至福な一服でした。
と、そこへ♪か〜ら〜す なぜ鳴くの からすは山にぃ♪ という少女合唱団の歌声が流れてきた。音は隣のテーブルに設置したポータブル蓄音機から出ている。重鎮がポータブル蓄音機のゼンマイを巻いてレコード盤を回し、その溝へ針を落としたのだ。おお懐かしい、涙がちょちょぎれる。雑音しまくりだったけど、ポータブルの割にはだいぶ大きな音でびっくりしました。
レコード盤もSP盤で、持つと手にずしりと重い。盤がぐるぐる回って針を中央へ運んでくるまでに3分ほどしかかからない。つまりは一面にたったの3分1曲しか収められない時代のレコードで、今ではなかなか手に入らないらしい。
重鎮のお宝はこれで全てかというとそうでない。お屋敷にはまだまだたくさん眠っている。何せ、カメラだけでも18台もあるというのだから驚きだ。庭の離れに骨董品保管の小屋を建て増すくらいだから半端ない。
そういうお宝を黙って眠らせておくのは勿体無い気がするが、例えばこれらを公民館に運んできて展示しようものなら、いたずら小僧が待ってましたとばかりに片っ端から壊しまくる可能性がある。
公民館の窓ガラス一枚割られてから懲りた。だから公民館へは飾れない。子どももは壊し屋のプロなのだ。それがお宝であろうがなかろうが、子どもたちは世の中の価値とまるで関係ないところで生きてるんだからどうしようもない。まあ、それが子どもでもあるんだが。
【書】「裏行」リコウ(No.1,491)
「官名。唐代に始まった制度で、正員でなく、ただその列に加わっている見習い、試補など。裏行使。」(『旺文社漢字典第2版』)
「裏」は、衣と、音を表す里(リ)とで、衣のうら地、「うら」、ひいて「うち」の意を表す。
「行」は、十字の形にかたどり、道路の「みち」の意を表す。ひいて、道を「ゆく」意、転じて「おこなう」意に用いる。
【ディジタル画】『彼岸過迄』雨の降る日 一(No.931)
田口の長女は千代子と言った。雨の日に松本と食事を共にした女性である。妹を百代子と言った。
正月半ばの歌留多会の折、敬太郎は千代子から、あなたずいぶん鈍いのねと云われた。妹の百代子からは、貴方と組むのは厭よ、負けるに極まってるからと怒られた。
たかが歌留多ごときで、怒ることはないだろう。
【昭和の風景】210
「藤澤」白黒。
中央にでんと位置する大鳥居は江ノ島弁財天の入り口を示している。人々はこの鳥居を潜って江ノ島に向かった。
ということは、川にかかる橋が藤澤橋で、それを抜けた家並みの向こうが遊行寺という按配になるか。私は遊行寺をすっかり江ノ島の旅館郡のつもりで描いていた。
藤沢に住んでいた頃、この道は散歩道としてよく歩いた。そして、歩きながら思ったのは、江戸の宿場町として栄えただろう藤沢ではなく、それより後の、日本初の計画的別荘地として開発された鵠沼だった。
【タイムラプス】7/18(火)6:13〜8:53の伊豆長岡の空。39秒。