いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

青梅の尻を揃へて庭に落つ(あ)

【きょうの一枚】梅の実。

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 小梅が庭に落ちていた。数えたら16個あった。奥の茂みを探せばもっと見つかるかもしれない。でも、大半はまだ枝に引っ付いている。よし、あともう少ししたら出番を作ってやるからな。それまで頑張れよ。

 今年は梅が豊作だと喜んでいた。これで「じぃじ水(特製梅ジュース)」が作れるとほくそ笑んでいた。とらぬ狸の何とかもいいとこ。

 夏休みに孫が来るかどうか判らないが、来たら「じぃじ水」をたんまり作って飲ませてやろうと思っている。だから、もうこれ以上落ちないでくれよ。もぎ取るまで枝でエキスを蓄えておいてくれよ。頼むぜ。

 

【書】「弐室」ジシツ。(No.1,410)

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「補助的に設けられた宮殿。離宮。帝館甥于弐室テイはセイをジシツにカンす<孟子・万章>」(『旺文社漢字典第2版』)

「弐」は、貝(財貨)と弐(ジ・ニ。二)とで、財貨を二倍する、ひいて「そえる」「ふたつ」の意。転じて「そむく」意に用いる。二に通用する。

「室」は、宀(家)と至(シ。シツは変化した音。ゆきどまりの意)とで、家のゆきどまりの奥の「へや」の意を表す。

 

【ディジタル画】『門』十七の五(No.850)

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 「(宗助が)昔し京都にゐた時分彼の級友に相国寺へ行つて坐禅をするものがあつた。当時彼は其迂闊を笑つてゐた」。

 私は坐禅をしたことがない。したがってその先に見えるはずの「無」をまだ見たことがない。「無」だから見えないのだろうか。「無」とは見るものではなく感じるものなのだろうか。判らない。

 「無」とはなんだろう。己が人生を振り返ってみるとき、最近「無」についてよく考えることがある。

 

【昭和の風景】132

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 津軽凧絵。

 輪郭を「水彩C1」ブラシで、髪の毛と髭・眉毛を「木炭ブロック」ブラシで描いた。

あれこれ試行錯誤した結果として、今のところこれがディジタル画で描きたいものにいちばん近いかな。特に、髪の毛・髭・眉毛のもふもふした感じが出せたことにある程度満足している。

 「かすれ」は表現できなかったけど、もともとConceptsでは「かすれ」を表現できないのかもしれない。アプリ「禅ブラシ3」は、簡単にできるんだけどなあ。

 もう少し研究を重ねてみるか。

 

 【タイムラプス】4/28(金)6:35〜9:56の伊豆長岡の空。25秒。

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【新型コロナ】4/28(金)23:55現在(Yahoo!ニュースより)

<国内>

新規感染者数→11,399(前週同曜日比+1,296)

累計感染者数→33,717,532

死亡者数→74,537(同日比+25)

<静岡県>

新規感染者数→181(前週同曜日比−35)