娘が旦那の運転でお米を取りに来た。
そのとき私はテーブルに文芸誌を広げ、せっせとiPad proで模写していた。
模写のデータはどれほど溜まったろうか。
Macの縦書きエディタ「縦式」を知ってからiCloudに保存してきたが、始めたときに開けていたファイルが開けなくなってしまった。これまで手作業で入力してきたデータがいっぺんに消えてなくなった瞬間で、そのショックはあまりに大きい。
だから言ったじゃないの。これまでさんざかやらかして来たでしょ? 何回やれば気がすむの。パソコンは便利だけど、過信しちゃいけないってあれほど言ったのに。パソコンは華奢に出来てるから、いつ壊れてもおかしくないものなんですよ。
気を取り直して、今度はiPadで模写している。その点、まったく反省の色がない。
模写は読むスピードががくんと落ちるが、でも、書く人の思考やリズムに寄り添うことことができるからと思ってやっている。やってためになる。模写は、もともと遅筆の私にはお誂え向きのシステムだと思っている。が、それでも人にはすすめない。
いちばん下の孫娘は今年二歳。そいつも一緒について来た。
娘の旦那は、伊豆で生まれた孫娘の顔見たさに私がお米で釣っていると思っている節がある。それはある意味本当だ。
今日来た孫娘は、階段の上り下りは自力でできる。が、よちよち一人歩きがまだ出来ない。這いつくばって突進する速さは人一倍で、たちまちトイレ前の白玉石をしゃぶりにかかる。ゴキジェットを浴びたゴキの動きそっくりだ。その白玉石、敷いてこのかた掃除してないから埃だらけだよばっちい。でもいいさ。天真爛漫のその笑顔を、いつでも見せに来てくれれば。
【書】『奥の細道』23(日光8)(No.1,883)
「仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。廿余丁、山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。 暫時は滝に籠るや夏の初」(訳:そこで、この「剃捨て黒髪山に衣更」の句も生まれたのである。「衣更」の二字は、単なる季節の「衣更」だけでなく、出家遁世の感慨もこもっていて、読者に力強く響くことだ。 社殿から20町あまり山を登って行くと滝がある。岩が洞穴のようにくぼんだ岩の頂上から、百尺も下に一気に飛び流れて、たくさんの岩が重なり合っている。真っ青な滝壺に落ちこむ。岩屋から入り込んで滝の裏側に出て眺めるところから、この滝を「裏見の滝」といい伝えている。 こうして裏見の滝の裏の岩屋の中にあって、しばらく清浄な気持ちで時を過ごすのも、仏道の夏籠りの初めとしてである)。
門人として芭蕉と共に旅をしたかった。この段、芭蕉のレクチャーを聞いているような、そんな錯覚を覚える。ああ、宗匠と歩く『おくのほそ道』って、どんな感じだったんだろう。
今の距離で言うと、1丁(町)は約100m。ということは、「廿余丁」という距離はおおよそ2kmということになるか。老人の足にはちょっと辛いかな。おっとどっこい、芭蕉はそこを歩いたのか。健脚というか年寄りの冷や水というか(失礼)。普段は俳諧のことで頭が一杯で山登りのトレーニングなんかしてなかったろうに。
【昭和の風景】津軽弁。(No.583)
絵手紙。「そたらだ はんかくせごと へば まいね」。
「そんな みっともないことを しちゃ いけない」の意。
墨絵の手法をディジタル画でやってみた。ディジタル画にのめり込んでいく私のことを、言っているみたい。
「はんかくさい」は北海道でも言う。以前、大泉洋が「水曜どうでしょう」というバラエティー番組で言っていたような気がする。
【タイムラプス】令和6年8月25日(日)8:53〜11:35。39秒。
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