津軽弁を「昭和の風景」に取り入れている。津軽弁は私にとって、昭和の風景を語るには欠かせない。
私は昭和28年4月に生まれた。
そのころの風景が果たして「昭和の風景」と言えるかどうか判らない。昭和20年に戦争が終わり、その8年後に私が生まれた。考えてみれば、戦争が終わってまだ10年も経っていない。
東日本大震災が起こったのは2011年3月。あの震災以来私の人生は変わった。これまで大切にしてきたものが一瞬にして目の前から消えてなくなる苦痛を感じた。あれは今から13年前。その印象が強く残っている。
あれから自分にとって大切なことは何かを考えるようになった。
自分にとって大切なこと。それは、生きたくても生きることが叶わなかった人のためにも生きること。
【書】『奥の細道』序文1(No.1,851)
「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらゑて老を迎ふるものは日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるもあり。」(訳:時は永遠の旅人である。月も日も年も、始まりと終わりを繰り返しながら、歩み続けて止むことはない。船頭も馬方も旅をしながら老を迎えるという意味では旅のなかに住んでいるようなものだ。古人も多くは旅のなかで死んでいった)。
ご存じ、有名な『奥の細道』の冒頭部分。中学高校時代に暗記した方も多いだろう。
加えて私は、手描き文字を書いてみることをお勧めしたい。
お手本はある。早稲田大学図書館にある。
早稲田大学の図書館に『奥の細道』序文のアーカイブ資料があって、手書き資料はそこで提供されている。ありがたい。感謝します。模写させてもらいます。
百人一首の時は京都大学図書館所有の資料を参照した。今回は早稲田大学。名だたる名門がこういうふうに積極的に電子資料を提供してくれることによって、これまで世に出なかった資料に触れることができる。なんて素晴らしいんだ。他の図書館もどんどん追随してほしい。
早稲田大学図書館所蔵の資料は芭蕉の直筆じゃないかもしれない。でもいいんだ。当時の手描き文字をディジタルで表現できるんだから、それだけで十分。誰が書き残したかは問題ではない。知らない人が書いて、それがきれいに残っていてみんなが見ようと思えば見られる状況にあることが大事。
だけど、芭蕉って俳句はもちろん地文もうまい。
船頭を「船の上に生涯を浮かべ」とか、馬方を「馬の口とらゑて」と表現するあたり、なかなかのもんです。俳諧だけでなく、どうせならそういうところも見習いたい。
【昭和の風景】津軽弁(No.571)
絵手紙。「わ の ままさ ハエ たがってら」。
「私のご飯にハエがたかっている」。
いつの風景だろうか。当たり前のようにハエが食卓の上を飛び回っていた。
その昔、家の中をハエがぶんすか飛んでいた。天井からハエ取り紙を吊るし、粘着力でハエをやっつけてご飯を食っていた。たまに、髪の毛がハエ取り紙にくっついて剥ぎ取るのにえらい難儀した。
当時はハエは不衛生の代表格で、カミさんはハエを見つけようものなら、親の仇のように追っかけては引っ叩いた。
そんなハエも今はほとんど姿を見なくなった。一体どこへ行っちゃったんだろう。
【タイムラプス】令和6年8月2日(金)15:59〜17:54の伊豆長岡の空。28秒。
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