いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

詩の味もしびれる夏のウイスキー(あ)

    ダメだ。「縦式」がうまく動かない。

 やはりOSの問題か。

 おまけに「メモ」も使えなくなってしまった。

 だから今、iPad pro一本に頼っている。

 やることが山積なのに、なんてこった。

 大型の台風が接近しているとの報にいくらか身構えたが、本体が東の海上にそれると知って、大掛かりな準備をしなかった。なるだけそれてくれるよう念じたが、念じた通りになってひとまず安心。

 6月下旬に青森に降り立って同窓会に出た。いろんな懐かしい顔に接する中で「詩の会」を紹介された。同窓生が主宰しているという。「詩に興味があるか」と知り合いに訊かれ、「ある」と即決した。どちらかというとこれまで「詩」を避けてきた傾向があるが、そもそも詩を含めた文学の鑑賞に方法なんてあろうはずがない。

 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と「犬が西向きゃ尾は東」。この違いは何。どっちが文学でどっちが文学でないか。

 これまでずっと蟠ってきた。で、いまだに結論は出ない。どっちが文学かは未だに判らない。

 でもこれは「文学とは何か」を考えるうえでの基本的な命題。

 私が考える鑑賞法は、ざっと読んで心に引っ掛かるものがあるのが文学で、ないのが文学でないというもの。で、詩人会議今号で引っかかったのが佐藤和英氏の「天使の分け前」。

殊に最後の「ウイスキーグラスを傾ければ/人生という香気が薫り立つ」にしびれた。理由はない。とにかく「しびれた」だけ。詩の鑑賞(も含めた文学の鑑賞)は、それでいいのだと思う。

 

【書】『奥の細道』14(室の八嶋2)(No.1,864)

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「……又煙を読習し侍るもこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。」(訳:……また、室の八嶋といえば、和歌では煙を詠むのが習わしになっていますが、それもこのいわれによるのです」と話す。またここでは、このしろという魚を食べることを禁じている。こういう八島明神の縁起の趣旨が、世間に伝わっていることもあるようである)

 「このしろ」かあ、平塚の金目川近くの海岸でよく投げ釣りをしたけど、ついぞその姿を見たことはなかったなあ。押し寄せうねる波だけが記憶にある。

 

【昭和の風景】津軽弁。(No.584)

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絵手紙。「しがま おどすねば まんど わえるね」

「つららを 落とさないと 窓 割れるよ」の意。

 ぽたぽた垂れる雫が凍って、軒下に氷の牙を作る。それをつららと呼ぶ。これの根が固まると子どもが振りかざす棒だけではびくともしない。スコップを持ち出して落としにかかるが、これが腰の曲がった高齢者にはひと苦労。下手したら、その落下の直撃を受けてお陀仏となりかねない。命懸けの作業だが、その危険を雪の降らない国の人は知らない。

 つららといえば、その昔、森繁久弥氏が「どじょっこふなっこ」で歌った童謡を思い出す。

 懐かしさにつられて探しても、どれもみな♪春になればしがこもとけて……♪という歌詞。が、私が聴いたのは「しがこ」ではなく「しがま」。

 「しがこ」は、どこの言葉か知らない。こんな柔な言葉は聴いたことがない。言い方は悪いが「しがこ」はどうもお遊びの延長のような気がしてならない。私が知っているのはあくまでも「しがま」。「しがま」でないと命を張った雪国の緊張感が伝わって来ない。

 

【タイムラプス】令和6年8月16日(金)6:49〜11:39の韮山方面の雨空。36秒。

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