一昨日、市図書館からメールが入った。借りた本の返却日が迫ったことを知らせるメールだ。
パソコンの普及によって、こういったお節介がやたら増えた。送った人は、それは親切心から起きたことだと信じて疑わないが、受け取る側はそうではない。余計なお世話だと受け取る。放っといてくれと思う。いや、そう受け取るのは私だけかもしれない。
情報過多というのだろうか。やたら情報が多すぎて整理ができない。送られてくる情報の何が重要で、何が重要でないかが見極められない。
情報過多社会に流されないためにはどうすればいいのだろうか。
重要性を見極める眼力を養えばいい。
その眼力はどうやって養えばいいか。
それは、読書で養うしかない。
【きょうの一枚】公民館土手の手入れ。
大の男がでかいケツを突き出して何をしているんでしょう。
公民館土手を耕して水仙の苗を植えようというわけです。
体育文化推進委の方が助っ人に駆けつけてくれました。右にその二尻が並んでます。
反対側の花壇は、老人会がきれいに整頓してくれました。
土が露わになっているところを指して、そこに何も植えないのかと言ったら、下にチューリップの球根が植わってるんだと。そのチューリップが咲き乱れる来春が楽しみだ。
【書】「楽(樂)」ラク・たのしい(No.1,595)
糸を二本並べた形は、楽器の弦を意味する。木に弦をはった楽器。ひいて「たのしむ」意。(『旺文社漢字典第2版』)
これまでこの字を何度書いただろうか。私の大好きな字の一つです。
たった一度の人生だもの楽しまなくちゃ、という思いを込めて書きました。
【ディジタル画】『道草』五十七(No.1,035)
「健三の心は紙屑を丸めた様にくしゃくしゃした」。女だとそれを「ヒステリー」といい、男だと「神経衰弱」という。当時はそう思われていた。
「ヒステリー」であろうが「神経衰弱」であろうが、そんな呼び名はどうだっていい。
問題は、健三の心が「紙屑を丸めた様にくしゃくしゃした」ということ。
むしゃくしゃするようになったのは島田(健三の養父)が、無心のために健三宅をちょくちょく訪ねるようになってから。
「みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何も欲しくないのだ」
健三もいうねえ。その通りだ。
島田もここでは一手に悪者を背負った格好になっているけど、本当は世の一般大衆の心持ちを代弁しているのだと思う。腹を割ればみんなみんな金が欲しいのさ。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.315)
喜多さんが、峠の茶屋で安倍川餅を食っている図。
腰掛けているのは茶屋の縁台。
こうして外の空気を吸いながら食う餅は、さぞかし頬っぺたが落ちるほどに旨いことでしょう。
【タイムラプス】令和5年11月19日(日)6:05〜7:55の伊豆長岡の空。27秒。
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