いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

秋霖に卒塔婆濡れて真新し(あ)

 先週いただいた花の苗を、今日の午前中に手分けして2箇所に植えるはずだったが、神奈川のカミさんの実家で法事があり、そっちを優先することにした。

 花植えを手伝いたいが手伝っていたら法事に間に合わないと告げた。そういうことなら法事を優先してくださいという暖かいお言葉が返ってきてそれに甘えることにした。

 

【きょうの一枚】といいながら4枚ほど。

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 久々に狩野川の土手を駅まで歩く。

 ブタクサの刈り取られた向こうの川面にカモが七羽ほど戯れていた。

 カモは越冬のために北から渡ってきて寒さが和らいだ頃に再び北へ戻っていく。寝なしぐさの渡り鳥だ。

 目を瞑る。寝なしぐさの渡り鳥のような生活を送った親父を思う。

 雪のない夏場には沖へ船を出し、雪が降る頃には寝具をまとめて京浜へ出ていった。

 その父が、私が川崎で暮らすと聞いて言ったことがある。「川崎なんてのは人間の住むとこじゃねえ。おめえはそこで暮らすんか」。

 親父は某ガラス会社の出稼労務者として川崎の海側で寝泊まりしたことがある。

 おそらく親父は、川崎は川崎でも、スモッグで昼なお暗い京浜工業地帯で働いていたので、そのときの印象が頭に残っていたらしい。川崎=公害スモッグという先入観があったようだった。

 私が住んだところは、同じ川崎でも緑多い山の方で、お洒落な郊外電車が走っていた。川崎というところは東西にヒョロ長く、東の海側は工業地帯で山側は高級住宅が建ち並ぶ、そんな印象だった。

 カミさんの実家が横須賀でアパートを経営していると知ったのはその頃だった。

 どうせ家賃を払うならカミさんの実家がいいと横須賀に引っ越したのはいうまでもない。

 その頃世話になった逗子駅と、その写真も少々。逗子駅前は、今も昔も変わらないなあ。

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【書】「慕」ボ・したう(No.1,588)

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 㣺(心)と、音を表す莫(ボ。さぐり求める意→摸)とで、心でさぐり求める意、ひいて「したう」意を表す。(『旺文社漢字典第2版』)  

 

【ディジタル画】『道草』五十(No.1,028)

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 細君を看病していた下女は、健三に「もう彼方へ行つても好い。此所には己が居るから」と言われ、無言のまま立ち上つた。

 下女の部屋は台所の傍の三畳間らしかった。どうも日中は日の差し込みそうにないカビ臭い部屋だったみたい。当時の下女があてがわれた部屋はそれが一般的だったのかもしれない。

 細君が具合を悪くして寝込んでいるのは、ヒステリーの一つの症状なのか、妊娠からくる精神的障害なのかは判らない。

 

【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.308)

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 昨日は喜多さん、今日は弥次さん。

 2人の東海道珍道中は旅行ブームの走りだそうです。 

 

【タイムラプス】令和5年11月12日(日)5:51〜8:13の伊豆長岡の空。20秒。

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