これからシーズンを迎えるというので、薪ストーブの煙突掃除をした。
煙突には随分煤がたまっていた。家の中が煙で充満するのはたぶん煤が詰まっているからだろうと読んだが、その通りだった。きれいに掃除した。
煙突がぐらつかないように、煙突の先っちょを針金でベランダ手すりにくくりつけてあったが、それを外そうとベランダの手すりを越えようとしたらバランスを崩して落ちそうになった。
歳だ。もう70だもんな。あちこちガタも来るさ。
前の煙突掃除のときはなんでもなかったが、寄る年並みには勝てず、いつの間にか体のコントロールがうまく効かない老いぼれになっていた。
【きょうの一枚】薪ストーブと鉄瓶。
薪ストーブは数年前にホームセンターで購入した。同時に煙突も購入したが、トータルすると煙突の方が薪ストーブ本体よりも高くついた。
それは別にいいのだが、問題はメンテナンス。湿った薪をくべると、煙突の中に煤がたまりやすくなる。その煤が外気に触れて煙突からコールタールが滴り落ちる。そのままにしておくと煙が逆流して火災の原因になる。家が燃えちゃったらどうしようもない。それで仕方なく煙突掃除をするが、これがなんとも手間。
薪ストーブは見るからに暖かそうで、実際に暖かいが、薪を調達しなきゃいけないしメンテが大変だし、導入はおすすめしない。チロチロ燃える炎を見て心を癒したかったら、悪いことは言わない、電気炬燵にくるまってみかんを剥いていた方がよほどいい。その方がはるかに経済的だし楽ちんだ。
では、なぜ薪ストーブにこだわるかといえば、昔の家族団欒の中心には常にこれがあったから。その昔の暮らしを再現したいという、ただそれだけのことからきている。この薪ストーブがあるだけで、心も体も暖まる。
薪ストーブが勢いよく燃えていた頃は、メンテナンスのことなんてちっとも考えなかった。ただぬくぬくと薪ストーブを囲んでいた。
でも、考えてみると、そういう手が汚れるメンテナンスは一手に父親が引き受けていたんだね。家を守るというのはそういうことなんだと改めて思った。
鉄瓶は南部鉄瓶。青森の実家を解体するときに譲り受けた。
囲炉裏がなくなった今、居場所がなくて、こうして薪ストーブの上に胡座をかいている。
【書】「舗」ホ・フ(No.1,587)
〓(ホ・フ。舗の、舎を金に換えた形が本字)。金と音を表す甫(ホ・フ。しく意→敷)とで、門の輪をとりつける金具の意。借りて「しく」意、転じて「みせ」の意に用いる。(『旺文社漢字典第2版』)
【ディジタル画】『道草』四十九(No.1,027)
健三宅に島田(健三の養父)がやってきた。健三は島田の退屈な話に付き合わされる。頃合いを見て島田は、また来ると言い残して健三宅を後にする。「健三の門には軒燈さへ点いてゐなかつた」。
うちの軒燈も「外灯」のタマが切れてから玄関先が真っ暗闇。以来、人が訪ねてこない家だからまあいいかとそのままにしてある。こんなやつが玄関の軒にぶら下がっていたら、さぞかしオシャレだろうな。
【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.307)
弥次喜多道中の喜多八さんが、道中こんな格好をしていたかどうかは判らないが、とにかくいろんな図柄を試しに描いてみることにした。これも勉強。
【タイムラプス】令和5年11月11日(土)6:02〜9:24の伊豆長岡の空。25秒。