【きょうの一枚】踏切脇の芙蓉の花。
扶養は昔から「美しい人のたとえ」に用いられた。
どんなに暑くたって、水分をろくすっぽ摂ってなくたって、季節を忘れず花いっぱいに咲く。
そんな炎天にずっと立ってて、お前! 夏バテになったことないの?
【書】「誨育」カイイク(No.1,504)
「教え育てる。」(『旺文社漢字典第二班』)
「誨」は、言と、音を表す每(マイ。カイは変化した音。くらい意)とで、道理にくらいものに教えさとす、「おしえる」意を表す。
「育」は、子供がさかさになって生まれ出る形と肉(ジク・ニク。イクは変化した形。からだの意)とで、子供が生まれ出る意、転じて、「そだてる」意を表す。
【ディジタル画】『彼岸過迄』須永の話六(No.944)
須永の話は続く。
田口家に千代子が生まれたとき、須永の母は、「大きくなったら此子を市蔵(須永市蔵)の嫁に呉れまいかと田口夫婦に頼んだのださうである」
それで二人は、「子供の時から一所に遊んだり喧嘩をしたり、殆んど同じ家に生長したと違いはない親しみ」を感じながら育った。だから今更夫婦になって新しい生活を築く気になんてなれない。
須永が風邪をひいた時に千代子は彼を見舞った。そこには異性に対する感情はこれっぽっちもなかった。子供の時から同じ屋根の下で育った間柄の、ごく当たり前のことに過ぎない。
しかし、須永を見舞った敬太郎は違った。二人を「男と女」と見たのである。以来、千代子の存在が気になって仕方がない。
さて、これから話は、どういう方向へ進んでいくのだろうか。
世に「鴛鴦夫婦」と呼ばれる、仲睦まじい夫婦がいる。
もし須永と千代子が一緒になったとしたら、たぶん何でも判り合える鴛鴦夫婦と言われるようになるだろう。
でもそれは、男にとって最悪だ。須永はそれを察している。だから千代子とは一緒になれないと思っている。
千代子はどうか。須永と一緒になることを望んでいるのだろうか。そして、敬太郎は。
【昭和の風景】224
「沼津」色付き。
沼津といえば、なんといっても千本浜でしょう。浜を渡る松籟が心地よい。クーラーなんて無粋なものはいらない。
背後に大きな富士が聳える。この景色に一目惚れして移り住んだのが歌人・若山牧水。近くに居住跡が記念館として残っている。
浮世絵の旅人は大きな天狗の面を背負っている。方向からしてこれから四国・金比羅さんにお参りするのだろうか。
模写して不思議に思ったのは、真ん中に白い満月が見えること。目の覚めるような青空に大きな満月が浮かんでいる。どうしたらああいう発想が生まれるのだろう。
そこにやや抵抗感があって、空を青く塗った後に、黄色と淡紅を走らせた。
【タイムラプス】7/31(日)6:08〜7:48の伊豆長岡の空。24秒。