【きょうの一枚】戸田塩と胡瓜。
新装開店の駅売店で買った。こっちの方が道の駅より安い。
基本、駅だから四輪車を停めておく場所がない。それが難点。だけど、駐車場は必ずあるからバイクはそこに停められる。
新装の売店は塩の他に地の野菜を直売している。野菜も道の駅で買うより安い。
会計は売店奥の蕎麦屋で済ます。野菜を蕎麦屋で買うというのはちと違和感があるが、人件費削減を考慮すれば自然そうなる。コンビニが駅に入ったと思えばいい。
かつて人がやっていたことを今はロボットがするようになった。
駅も例外ではない。
かつては行先を告げると中にいる駅員さんが切符を用意してくれたものだが、今は駅員の代わりに自動販売機が窓口に並ぶようになった。改札口からも駅員の姿が消え、吸いこまれた切符がたちまち穴を空けられ出口から吐き出されるようになった。
そのうち蕎麦を茹でるのも汁をかけるのも全てロボットがするようになるのかもしれない。
人間の温かさがどんどん疎外されていく。
人件費を削減し、便利さだけを追求していけば、やがて我々を取り巻く近未来はロボットだらけになる。
車の自動運転がいい例だ。そりゃ車に乗らないことが事故に遭わない究極の方策かもしれないけど、果たしてそんなんでいいんだろうか。人から運転の喜びを奪っておいて、それが安全のためとはよく言えたもんだ。
人間をそんなに長生きさせたいか。長生きした人間が何をしてくれた? 自分が生きたいように生きているだけではないのか。
今や人間は、生まれる時も死ぬ時も全て病院におんぶに抱っこするようになってしまった。新しい命の誕生をおめでとうと祝うのも病院なら、この世を去る人に合掌するのも病院なのだ。人間の生死がことごとく病院に握られている現実をどう受け止めればいのだろう。
話が変な方向へ行ってしまった。酒が不味くなる。この辺でやめておこう。
【書】「飯稲」ハントウ(No.1,481)
「米をたいて飯とする。また、飯となる米。」(『旺文社漢字典第2版』)
「飯」は、食と、音を表す反(ハン。広がる意→番)とで、平らに広がる食物、「めし」の意、ひいて、たべる意を表す。
「稲」は、禾と、音を表す〓 (トウ。稻から禾のパーツを取り除いた形。こねる意→陶)とで、こねてもちにする、粘り気のある「いね」の意を表す。
【ディジタル画】『彼岸過迄』報告 五(No.921)
田口は男と女の名を尋ねる。が、もとより敬太郎は答えられない。
「名前も全く分りません」と敬太郎は正直に言うしかない。
「田口は此答を聞いて、手焙の胴に当てた手を動かしながら、拍子を取るやうに、指先で桐の縁を敲き始めた」。
いつも思うことだが、ストーブなどない昔はどうやって寒さを凌いでいたのだろう。時代劇で雪降るシーンを見ても、見る人にちっとも寒さが伝わってこない。
【昭和の風景】201
「品川」。
お江戸日本橋を出発すると最初の投宿が品川になる。
今回も歌川広重の浮世絵を参照。色塗りは次回。
【タイムラプス】7/8(土)5:53〜8:42の韮山方面の雨空。20秒。