いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

蜜柑食ふあともう一つ小さめの(あ)

今日の陸奥新報コラム「冬夏言」で、1月14日は「タロとジロの日」だと知った。

コラムでは、「タロとジロは、1956年に第1次南極観測隊と共に犬ぞり隊として海を渡った。58年に観測船が氷に阻まれ第2次観測隊が南極に行けず、15匹の犬が置き去りにされたが、59年にタロとジロの生存が確認された」と紹介される。

私は、この奇跡の生還を果たした樺太犬を、小さいころ母親に連れられて行った弘前城の観桜会で見たことがある。そのとき私は2匹とも見たとずっと思っていた。

しかし、改めてWikipediaで確認したら、「タロは第4次越冬隊と共に、1961年5月4日に4年半振りに日本に帰国」したが、「ジロは第4次越冬中の1960年(昭和35年)7月9日昭和基地で病死」とあった。

ということは、私が弘前城で見たのはタロの1匹だったことになる。ジロは見ていなかった。それでも私はこれまでずっとジロを見たと思い込んでいた。

人の記憶ほど曖昧なものはない。あると思っていたものがなかったり、ないと思っていたものが突然出てきたりする。最近は、とみにそういう傾向がひどくなった。

年をとったからだろうか。過去の記憶がどんどん薄れていく。しまいには自分がこの世にいたことさえ忘れてしまうかもしれない。年をとるということは、そういうことなんだろう。

ああ、嫌だ嫌だ、年はとりたくないねえ、とぼやきながら人は年をとっていく。そう、記憶を一つひとつ消しながら。

もともと人には記憶を仕舞っておく部屋に容量があって、新しい記憶を仕舞おうとすると容量オーバーになって、古いデータが順に消去されるようになっているらしい。とすると、新しい記憶を仕舞わなければ古いデータはそのまま残るはずだが、そうはいかない。新しい記憶を仕舞わないという選択肢はないのである。

そうして人は、やがて、ため込んだ記憶を初期化して無に帰す。

 

【今日の一枚】小坂(おさか)みかん園のみかん。

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昨日、晩酌を楽しんでいたら、二軒北隣の旦那さんがみかんを持ってきてくれた。小坂みかん園でみかん狩りをしてきたと言う。

小坂みかん園は狩野川の左岸にあって、ロープウェイ駅が山頂にある葛城山の山裾に広がる。家から歩いて30分ほどの距離である。

いただいたみかんはレジ袋いっぱいに詰まって、形は不揃いだけど、それがまたみかん狩りらしくていい。早速食ってみたら結構甘い。甘いみかんといえば沼津・西浦の「寿太郎」が有名だが、小坂みかんだってなかなか甘い。

この年末年始に孫が来たけれど、そうか、孫をみかん狩りに連れ出すという手もあったな。

しかし、これだけの量を一人で食ったら血糖値がグンと上がるのは目に見えている。いただいたはいいけれど、痛し痒しである。

 

【書】「夜」ヤ・よ・よる(No.358)

▼甲骨文は無し。

▼金文

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会意。大と夕とを組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。夕は夕方の月の形である。人の腋(わき)の下から月が現れている形で、月が姿を現すような時間帯を夜といい、「よる、よ」の意味に用いる。

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】1月14日(火)5:49〜7:21の伊豆長岡の空。22秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2773403896050803/?d=n