いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

老年を愉しむべし

中野孝次著『老年の愉しみ』を読んでいたら、こんなことが書いてあった。

「老年になるとはただの一個の人間に戻ることで、そうなってみたときものをいうのは過去のキャリアでもなく、地位でも官位でも収入でも何でもなく、その人間の人間としての中味だけである。キャリアへの誇りしかなかった者はそれを失えば何もなくなるが、人間として人生を生きてきた者は老年になってこそ輝きだし、充実がわかる」
まずもって、「老後」と言わず「老年」と言うのがいい。老後と言うと、年をとった後のつけ足しの人生みたいな響きがあっていけない。「老年」となれば、少年、青年、中年、老年という人生を貫く流れの中で、まだまだ現役という意識が含まれる。
私の中に「人間としての中味」があるかと問われれば、はなはだ心もとないところではあるが、今は、少なくとも充実した人生を送っているという思いはある。多少の不自由はあるにしても、ともかく自分の好き勝手なことができているので満足度は高い。金はあの世に持って行けない(持って行きたくても蓄えがまるでない)ので、後始末代だけ残しておいて、後は全て愉しみにつぎ込むつもりでいる。子、孫には申し訳ないが、児孫のために美田は買わず、である。
中野孝次は、大学でドイツ語を教えておられた。私は第二外国語にドイツ語を選択していたが、その時のドイツ語の先生が中野先生だったかどうかは記憶にない。ただ、ウィキペディアによれば、私の在籍期間と先生の在職期間がピタリ重なるので、私がドイツ語を中野先生から教わっていた可能性はある。とは言っても、その年のドイツ語は欠課が嵩んで単位を落とし、翌年、夏期集中講座で高橋義孝先生のドイツ語を受講して何とか単位復活が叶ったのではあったが。それにしても高橋先生の講義は、語学というよりも、フロイトの話しかしなかったように思う。いや、文法の何たらかんたらはしたのかもしれないが、フロイトの話が面白すぎて、それしか記憶にない。しかし、高橋先生の影響でフロイトの『精神分析入門』や『夢判断』を手にすることになったのだから、人生、どう転ぶか分からない。分からないから面白い。7,762歩。
写真は、城山の登山道。この岩の真下が280mの懸崖。へっぴり腰で通るのがやっとで、下を覗き込む勇気はありませんでした。その腰じゃスカイツリーにも上れない(あ)
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