いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

春の雨降れ降れそして雪になれ(あ)

 地元のスーパーに行くと、♪鬼は外、福は内♪という歌が、どこからともなく流れてくる。

 豆をぶつけて鬼を家の外へ追い出し、代わりに福を招き入れる……。伝統の「豆まき」の行事だ。

 が、青森の弘前市の鬼沢地区に伝わる鬼は、人々を救う心優しい鬼として、神様としてまつられ、大切にされている。豆まきをするときの掛け声は「福は内、鬼も内」。豆まきをしない家も多い。そのことを東奥日報新聞コラム「天地人」で知った。

「所変われば品変わる」。いろんな風習があるものだ。

 我が家は鬼もいなければ福も来ない。せめて福だけでも来てほしいと思うが、来てくれた試しがない。いつもスカスカの生活をしている。スカスカというのはこの場合、腹を空かしたときの擬音語である。腹に入れるものもなく、いつもスカスカ音を立てている。我ながら情けないと思うがどうしようもない。

 コラムには続きがある。

 「伝説によると、弥十郎という農民が山で鬼と出会い、相撲を取って仲良しに。田んぼの水が枯れて困ったときは、鬼が一夜にして水路を開き、村を干ばつから救った」と。

 人が困っているときに自ら人助けを買って出る鬼がいる。そういう鬼もいるのだ。

 鬼はどこへ潜んでいるか判らない。

 でも、鬼が人間が空想した世界で活躍するのだとしたら、人の心のどこかに潜んでいるはずだ。普段は姿を見せないけれど、いざとなればな率先して人を助ける。できれば私も、そういう「鬼」でありたい。

 普段はのほほんと暮らしていても、いざとなったらなりふり構わず人助けに尽力する。いつかはそんな「鬼」になりたいと思っている。

 

【きょうの一枚】雪景色。

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 こうして雪の降らない地域に住んでも、たまに無性に雪景色が恋しくなったりします。育った風土を懐かしく噛み締める、そんな年になったんでしょうか。

 ♪襟裳の春は 何もない春です♪

と作詞家・岡本おさみは言った。かの歌がヒットした時、地元の人は「何もない」とは何事だと怒ったという。自分の住む土地を馬鹿にされたと思ったんだね。「何もない」という言いは、その地に住む人にとって社交辞令に過ぎないということを作詞家は知らなかった。

 何もない、なんてあり得ない。きっと何かがあるはずなんだ。

 私には、この冬景色に埋もれた生活が手に取るように判る。そういう景色を見ながら育ったから。

 

【書】「償」ショウ・つぐなう(No.1,671)

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 賞(ショウ。財貨によるむくい・ほうびの意)に人を加えて、賞と区別し、「つぐなう」意を表す。(『旺文社漢字典第二版』ディジタル版) 

 

【ディジタル画】『坊つちやん』その30(No.1,111)

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 坊つちやんの赴任した中学の校長。坊つちやんはこの人に狸とあだ名した。どうです、狸に見えますか? 

 「狸」と命名したのは、見た目ではなく人格的に、ということなのでしょう。ところが、坊つちやんは赴任早々、見た目であだ名をつけてしまった。でも人間って、付き合ってみて次第にその人となりが判ってきたりすることってありますよね。

 

【昭和の風景】『東海道中膝栗毛』(No.391)

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 時代が明治という時代に開化したときの近代日本の紳士でしょうか。一所懸命西洋の文化を取り入れようと足掻く日本人の卑屈さが見え隠れします。日本は「遅れた国」と捉えられていたんでしょうね。 

 

【タイムラプス】令和6年2月3日(土)6:48〜8:47の伊豆長岡の空。29秒。

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