Macアプリ「メモ帳」がご機嫌斜めで、何度電源を入れ直しても起動しない。そこで、やむなくiPadの「はてな」で直接ブログを書くことにした。
そこまでして、なんで毎日ブログを書くの?
ここまで来たらもうやめられないですね。毎日書くことが知らないうちに日課になっていて、書かないではいられない。
書くことをやめると、いろんなところに支障をきたす。ひい、ふう、みい……。
一、「きょうの一枚」をアップしなくなる。
二、「書」を書かなくなる。
三、「漱石全集」を読まなくなる。
四、「昭和の風景」を描かなくなる。
五、「タイムラプス」を撮らなくなる。
六、「俳句」をひねらなくなる。
うわ〜、そんなにあるんだ。
つまりは毎日それをやっているということだな。なんのために?
なんのため、なんて考えたことない。なんとなくダラダラと続けている。
ここで休んだら、たぶん、そこでやめちゃうと思う。
それが怖いんだ。だから、どうでもいいと知りつつ書き続けている。
所詮、人生なんてどうでもいいようなことの連続だと思っている。意味ある人生ってどんな人生? そんな人生なんてないよ。
人生に意味なんて求めちゃいけないのさ。現役時代に名を売った人でも、土に還ればただの人。それでいいんじゃないの?
【きょうの一枚】交通安全祈願のお地蔵さん。
市役所へ行く途中の交差点にある。暖かそうな毛糸の帽子を被り、これも毛糸で編んだマントをまとっている。誰かがそういう身繕いをしてくれたのだろう。お年寄りのお婆ちゃんかな。
でも、冬場はそういう格好でも良かったかもしれないが、これから夏場へ向かう季節はいかにも暑そう。いくら石の地蔵さんとはいえ、あれじゃ熱中症でぶっ倒れちゃうよ。
【書】「載書」サイショ(No.1,456)
「列国が同盟を結び、誓いを記した文書。誓約書。」(『旺文社漢字典第2版』)
「載」は、車と、音を表す𢦏(サイ。とどめおく意→在)とで、車の上に物を「のせる」意を表す。
「書」は、聿(筆)と、音を表す者(シャ。ショは変化した音。つける意→著)とで、筆でかきつける、「かく」意を表す。転じて「ふみ」の意に用いる。
【ディジタル画】『彼岸過迄』停留所 十六(No.896)
敬太郎は手頃な占い者を探して浅草界隈を彷徨い歩く。観音様、仲見世、奥山、並木、駒方……。
と、そこに子供の頃、蔵の二階で見た草双紙の絵解を思い出した。そこに、大きな蝦蟇の上に胡座をかいた児雷也の挿絵が登場する。
よし、今回は児雷也を描こう。そう思ってネットサーフィンをしていたら、児雷也に蝦蟇の妖術を教えたという仙素道人という人に出会った。青筋の走った奇抜な面相が焼き付いて離れない。で、児雷也をやめてそっちを描くことにした。
【昭和の風景】176
古い昔話の「カチカチ山」。色塗り第9弾。
よく見ると、ウサギの腰に刀が見える。つまり、ここに登場する兎は悪者を懲らしめる武士という設定だということだな。身分的には猫や犬よりも上だ。
もう一つ気になったのは、お爺さんの周りに飛び散っている「▼」。あれ、なんだろう。壁の模様じゃないよな。
【タイムラプス】6/13(火)6:40〜10:31の伊豆長岡の空。28秒。