いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

同人の詩や向日葵は個々に咲く(あ)

 高校の同窓会に参加したとき、読んでくれと頼まれた冊子が郵便ポストに届いていた。

 これも何かのご縁と心得て読むことにしたが、見るとどうやら詩の同人誌みたいだ。

 詩は苦手だ。なぜ苦手か。短い分だけ言葉足らずになって本心と異なるふうに受け取られかねないから。

 では、本心が伝わればどんな形でもいいのか。

 となると、それもまたどこか違うような気がする。

 私は俳句をやっている。俳句はご存じ、五七五とリズムを刻む日本でいちばん短い詩形である。短いから誤解も多い。第二芸術と呼ぶ人もいる。

 五七五という切り口は、これまでこのブログのタイトルとして何度も採用してきた。それは、思いのたけを五七五のリズムにのせて吐露する、というよりも、自分勝手な独りよがりを五七五に仕立ててほざいているに過ぎない。

 他人がどう思おうがそれは勝手と割り切っている。自分の思うことと誰かが思うことと一緒だなんてあり得ない。

 では、なぜ人は同意を求めようとするのだろうか。

 それは、寂しいからである。たった一人だけだと寂しいから、似たような考えを持つ人のそばで温もりたいだけなのだ。

 似たような考えは、あくまでも似たような考えであって、そっくり同じではない。そっくり同じだと思うのは、そう思い込んでいるだけである。そこに誤解が生じる。

 詩に使われる言葉は、選び抜かれたものばかりだが、選び抜かれた言葉という点ではエッセイも小説も詩も大差ないと思っている。もちろん、俳句も例外ではない。

 私は詩人ではない。けれど、ものを書くたびに、そういう研ぎ澄まされた、これしかないというピッタリな言葉を常に探し求めている。そしてそれは、誰もがやっていることでもある。

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【書】大納言経信だいなごんつねのぶ(No.1,830)

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「夕(ゆふ)されば門田(かどた)の稲葉(いなば)おとづれて芦のまろやに秋風ぞ吹く」(意:夕方になると、家の門前にある田圃の稲の葉にサワサワと音を立て、芦葺きのこの山荘にも秋風が吹き渡ってきたよ)。

 源経信は、正二位大納言にまで昇進したので、大納言経信とも呼ばれる。

 民部卿・源道方(みちかた)の息子で、詩歌や管弦(楽器の演奏)を得意とし、朝廷の礼式や作法などの「有職(ゆうそく)」に関して深い知識を持っていた。

 

【昭和の風景】津軽弁(No.550)

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 絵手紙。「ぶっただきゅうりにしてくべし。きゅうりだば何本あってもけね」。

 ここでいう「けね」とは「構わない」の意。

 方言のイントネーションには意外と気を遣う。「雨」のつもりで言ったのに「飴」と誤解されたり、「橋」を「箸」と誤認されてたりした経験は枚挙にいとまがない。

 また、津軽の人はゴミを「投げる」と言う。もちろん、「投げる」とは「捨てる」意であることは明らかだが、「ゴミを投げる」と言って笑われたことは何度もある。言うと笑われるからだんだん言わなくなる。津軽の人が無口なのは、口を開けている時間が長いと口腔が凍るからではない。言ったことを笑われるから言わないのである。だから、言っても笑われないと知った津軽の人の雄弁なことといったらない。

 北隣の奥さんから「きゅうり」をいただいた。4本。「家にいっぱいあるから」と言うが、考えてみたら、きゅうりを育てる場所がない。第一、曲がっていない。

 私もきゅうりを育てたことがあるが、まっすぐに育った試しがない。必ずひん曲がっていた。私の「へそ」みたい。苦笑いもいいとこ。

 思うに前のオーナーが今の自分の畑でこしらえたのを車で運んできてくれたんじゃないかな。それを私がお裾分けでもらったということだな。

 いずれにしても、ミニトマト屋さんが秋まで店を畳む以上は、その間きゅうりにありつけない。そんなとききゅうりをもらえるなんて、なんて運がいいんだ。見てる人はちゃんと見てる。世の中、捨てたもんじゃない。

 

【タイムラプス】令和6年7月12日(金)7:52〜10:25の韮山方面の雨空。38秒。

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