いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

甘い香を捨てて散り敷く金木犀(あ)

 ミニトマトの無人販売所へ行った。店が開く数分前に行ったが、現地に着いたらテーブルの籠はもぬけの空だった。

 これからセットするのかなと思って、集まっていた人に訊いたら、ミニトマトはすでに売り切れたとのこと。私が着いたのは、用意したミニトマトが完売した後だった。

 集まった人たちのうちの一人が申し訳なさそうに「よろしかったらどうぞ」と買い物袋の中から一袋取り出したが、「そうですか。では遠慮なく」というわけにもいかず、「結構です」と言って帰ってきた。さすがに買った人から買うわけにはいかないら。

 そんなに売れるんだ、ミニトマト。

 新規に農業をやるんだったらハウス栽培のミニトマトだね。

 次男坊が東京の会社を辞めて伊豆で農業をやろうとしている。それの手助けができたらいいと思っているが、果たしてうまくいくかどうか。

 成功するか失敗するか、やってみなければ判らない。ともかくやってみることが大事。開高健じゃないけど「やってみなはれ、やりなはれ」なのである。歌人・啄木のように、「ぢつと手を見る」暇なんてないのである。

 

【きょうの一枚】庭に散り敷く金木犀。

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 短かったな。もう少しその甘い香を嗅いでいたかった。

 花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、か。

 これは、作家・林芙美子が好んで色紙に書いた言葉だという。

 庭に散り敷いた金木犀を見つめながら、これから先の日常の苦しみを思う。

 

【書】「誰」スイ(No.1,566)

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「言と、音を表す隹(スイ。「たれか」ときくときの声)とから成る。」(『旺文社漢字典第2版』) 

 前の職場に「誰何(スイカ)」という言葉を好んで用いる人がいた。「誰だお前」とは言わない。何となく表現が固い。まあ、その言葉を使う使わないってのは好みの問題だからね。その人が気に入れば使うし気に入らなければ使わない。それだけのことよ。 

 

【ディジタル画】『道草』二十九(No.1,006)

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 「彼(健三)の頭には願仁(正しくは「願人」)坊主に似た比田の毬栗頭が浮いたり沈んだりした」。

 「願仁坊主」って誰だ? 漱石は知って当然のようにその名を口にするが、私は知らない。で、調べる。なるほど、この方ね。絵に描いて初めて判る。そういうことの繰り返し。てな具合に、知れば知るほど知らないことが増えてくる。人間は、そうして知らないうちにこの世から去ってゆくのでしょう。

 

【昭和の風景】東海道五十三次「阪之下」白黒(No.286)

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 峠の茶屋で一休みしている様子が描かれる。

 店内で寛ぐ人もいれば、遠くの山襞を眺める人もいる。荷を積んだ牛を引き連れる親子もいる。

 昔の峠の茶屋の賑わいを彷彿とさせます。

 

【タイムラプス】令和5年10月21日(土)5:57〜9:14の伊豆長岡の空。24秒。

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