いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

切り株の抱きつく岩や梅雨の雷(あ)

 最近は、知らず知らずのうちに疲労が溜まり、その疲労が回復しないうちに次の日を迎えるような、どうもそんな感じがしている。

 絵を描く時間を作るために週29時間勤務にしたのに、仕事を終えて家に帰っても、さあ絵を描くぞ、とはならない。ああ疲れたと梅ジュースを飲んでゴロンと横になることが多くなった。前校長先生に私から頼んでそうしてもらったのに、これではいけない絵を描かなくちゃと思いながら絵を後回しにしている。

 前に比べてだいぶ疲れやすくなっていることは確かだ。年を取ったのだろうか。きっとそうなんだろう。

 30分ほど横になって、それからiPad proを手に持ち、Procreateを立ち上げて描きたい画像をトレースする。ここしばらくはそのスタイルを貫いている。

 トレースは簡単のように見えていてそれほど簡単ではない。今は、画像を一瞬の操作でイラスト風に仕上げるソフトもある由で、コミック誌にも、ああこれはソフトを使って写真をトレースしたなと判る作品も多々見える。

 それが悪いと言っているわけではない。特に連載作品はそうしないと原稿が締め切りに間に合わないのだろうし、使って便利なものは大いに使ってよいと思う。

 その昔、赤塚不二夫の連載漫画が、あろうことか、途中から数ページにわたって白紙のまま発行されたことを今でも覚えている。あれは実に衝撃的だった。あれほど読者を馬鹿にしている話はないと思った。当時、連載を何本も抱える超売れっ子作家だったとしても、やっちゃいけないことはやっちゃいけないよな。

 それに比べれば、写真をトレースしたくらい、どうということはない。今はむしろ便利なものがあるんだから、それを使わない手はない。

 でも、ロボットの手によって描かれた絵はいかがなものかと思う。これからは働き手不足を補おうとロボットの導入が各界で検討されるのだろうが、絵の描き手だけはロボットになって欲しくないと思う。

 もしロボットが絵を描くようになったとして、その絵がいくら写真そっくりの精緻なものだったとても、見て心動かされる作品かというと、そうとも言い切れない。絵を見て、「うまいなあ」と思うかもしれないが、それはテクニックの巧みをいうのであって、心からわき起こる感動とは質が違う。

 私は、どうせ絵を描くのなら、いつか心揺さぶられるような絵を描きたいと思っている。しかもディジタル画で。そのための技を今独学中で、一つの励みになればとブログにアップもしているわけだけど、心揺さぶられるような絵って、当たり前ながら、自分でも心揺さぶられないと描けないんですね。何に心揺さぶられるか判らないけれど、淡々と過ぎる日々の中でそれと出会えたらどんなにいいだろうと思うこの頃です。 

 

【今日の一枚】ハイビャクシンの切り株。

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 先週伐ったハイビャクシンの切り株。溶岩にがっしり食い込んでいる。見ると溶岩の下にキノコが生えている。伐った時は生えてなかったのに。たったの5日間で、これだけの大きさになるんだね。

 後ろの朽ちた切り株は何の木だか判らない。脇から蘖(ひこばえ)が生えて若木に成長しているので、そのままにしてある。

 

【ディジタル画】パーカーの男(No.64)

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 パーカーは模様がないから描くのが楽。なんだが、仕上がりには、やっぱり1時間半かかっている。

 唇を女性の唇のように描いて失敗。もっと色を落とすんだった。

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】7月29日(水)4:42〜7:13の伊豆長岡の空。37秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1288755426507415552?s=21