昨日(5/23)付のディジタル版「朝日新聞」社説に、「朝ご飯を食べたと思ったら、昼の献立を考えなければならない。そうこうするうちに夕食の時間が迫ってくるーー。コロナ禍のなか、3食を準備することの大変さに改めて思い至った人も多いのではないか」とあった。
私の孫の世話は、まさにその通りの日々だった。「だった」と過去形なのは、孫の世話も今日で一区切りついたから。孫たちの通う学校も来月から再開することになり、そうなればこれまでのようにたやすく伊豆へ来れなくもなろう。私もようやくのんびりした日々を送ることができる。
ただ、孫たちが残していったお菓子の袋や、風呂上がりに使ったバスタオルや、忘れていった靴下なんかを片付けていると、一抹の寂しさを感じるのも確かで、そういう寂しさを津軽弁では「しげね」と表現する。例えば、「わいは、わらはんどいなぐなれば、しげねぐなるっきゃ」(あれまあ、子どもたちがいなくなったら、寂しくなるねえ、の意)という具合。
この「しげね」という語は、津軽弁独特の語感で、この気持ちを他の言葉に言い換えるのは難しい。
また、津軽弁には「うだで」という言葉があって、すごい、大変などの意味で使うが、これは古語の「うたてし」の形容詞語幹「うたて」が転訛したものであることはつとに知られる。
それで、「しげね」の語源も古語に見つかるのではないかと、ディジタル版「全訳古語4」(旺文社)に当たったが見当たらなかった。ただ、「繁し」という形容詞はあるから、その語幹「しげ」に打ち消しの「ね(なし)」をつけて「繁し」と反対の意味の言葉ができたという考え方は可能だ。
そう考えると、「しげね」という言葉は、「繁し」の状態だったものから急に「しげなし」になった状態を言い、賑やかだった祭りの後の寂しさという雰囲気が伝わる。祭りが賑やかであればあるほど、祭りが終わった後の寂しさは一段と身に染みるものだ。
かなり屁理屈っぽいと自分でも思うが、そういう理屈でも立てないと、「しげね」に含まれる語感は感じ取れない気がする。
【今日の一枚】孫娘の描いた昆虫の絵。
去年の正月に孫が伊豆へ来たとき、孫二人で書き初めをした。
お兄ちゃんの方がさっさと仕上げ、まだ墨が乾いていない半切をひとまず廊下に置いて乾かそうとしたら、墨がコルク材の床についてしまった。暗がりで見るとその墨跡がゴキブリに似てなくもない。そのことを孫娘に言うと、孫娘も同じように感じていたらしい。
まあ、所詮動かない墨跡だし本物でもないからと、私も拭き取らずにそのままにしていた。そうしたら今日、トイレに籠もって遊び相手になってくれない私に業を煮やしたか、トイレから出た私を捕まえて、「何か気づかないか」と孫娘が言う。「廊下にいつもと違うものがあるけど、それは何でしょうか」と続いて言われ、廊下を隅から隅まで見てようやく気づいた。それがこの「芸術作品」である。
すごい、今にも動き出しそうな昆虫の絵に仕上がっている。それで思わず、「これは、芸術作品だ」と口走ってしまった。
そんなことを言うから、孫は図に乗ってますます「芸術作品」に励む。
【タイムラプス】5:29〜8:26の伊豆長岡の空。22秒。
https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10223061590430361/?d=n