いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

何となく般若やさしき春隣

リオデジャネイロ五輪サッカーアジア予選準々決勝の日本対イランをテレビ観戦。普段はとっくに寝ている時間だが、ハラハラドキドキの連続で眠気もどこかへ吹っ飛んでしまいました。スコアは3対0と日本圧勝だったが、場合によっては勝利がイランに転がってもおかしくない試合展開だった。延長後半の2点目、3点目の中島のシュートはもちろん素晴らしかったが、私としては、延長戦前半5分の先取点のアシストをした室屋と、GK櫛引を評価したい。この二人、どちらも青森山田高校出身だって。同郷出身の活躍はやっぱり嬉しいね。難敵イランを撃破した勢いのまま、次の準決勝も堅実なプレーで勝ちを手繰り寄せることでしょう。
写真は、砂絵その3「般若面」。一昨日に見た、田京の中央図書館の切り絵画集を参照した。これだけ描くのに約40分。陰と陽のコントラストを砂だけでどう表現するかが難しい。陰と陽を捉える目ができていないんだな。こういう絵をさらさら描けるようになるには、ひたすら砂と戯れるしかないね。
「わだばゴッホになる」と言って1924(大正13)年に青森から上京した棟方志功は、その後板画家になり、1956(昭和31)年にヴェネツィア・ヴィエンナーレで国際版画大賞を受賞して世界のムナカタになった。同郷だからというわけでもないが、私が砂絵を描くとき、心のどこかにその棟方志功の趣を意識している自分を感じたりもする。
ドキュメンタリー映画「彫る・棟方志功の世界」(1975年)には、牛乳瓶の底のような分厚いメガネにねじり鉢巻で、ベートーベンの「第九」を口ずさみながら舐めるように板を削っていく棟方志功の姿が映されている。見たのは今から30年以上前になるが、そのときの映像が今も脳裡から離れない。何かに取り憑かれたように一心不乱に彫刻刀を動かす姿には鬼気迫るものを感じたし、またそれと同時に、楽しくて仕方がないといった空気に包まれているふうに感じたりもした。やりだすと周りが見えなくなるくらいに心が燃えること、表現せずにはいられないくらいに血がたぎること、そしてそれを楽しめること、そういう人たちを世は芸術家と呼ぶのだろう。
私は芸術家のような血のたぎりはひと欠片も持ち合わせていないけれど、ただ、楽しめること、それくらいはできそうな気がする。砂絵を始めてまだ間もないけれど、砂を使って絵を描くのはまあまあ楽しい。将来的にはこれをアニメーションにできたらいいと思っているが、とりあえず今のところは絵の勉強ということで、のんびり楽しめたらいいと思っている。
ところが問題は、砂絵の作品はデジタル画像でしか残せないんですね。当たり前だけど次の作品を描くには、前の作品を消して砂をならさなくてはいけない。これがね、ちょっと寂しいんです。紙やカンバスに描くようなわけにはいかない。一所懸命描いてもたちどころに消される運命にあるところがいかにも諸行無常の響きあり、というのは大げさだが、気分的にはそんな感じです。(あ)

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13,410歩。