【今日の一枚】工事中のマクドナルド。
マクドナルドは、下田街道を挟んだ市立図書館の向かいにある。
地元の中学生や高校生は図書館まで渡らずに、ここで勉強を教え合い、おしゃべりを楽しみ、ハンバーガーで空腹を満たす。
読みたい本があったら図書館を利用した方が断然いいと思うがそうしない。
中2の孫娘がまだこっちにいるときに一度訊いたことがある。向かいに図書館があるのになんでそっちへ行かないの?
そうしたら、図書館では飲み食いできないし、おしゃべりができないからという答えが返ってきた。そうか、読みたい本は学校の図書館で足りるのか。新発売の文庫本は本屋で親が買ってくれるのか。図書館に教科書は置いてないか。だったら市立図書館はいらないね。
【書】「眉宇」びう(No.1,172)
「まゆのあたり。まゆ。転じて、顔かたち。」(『旺文社漢字典』第2版)
「眉」は、目の上をまゆ毛がふちどるさまを示す。
「宇」は、宀(やね)と音を表す于(う。おおう意→羽)とで、やね、ひいて「いえ」の意。転じて、天下の意を表す。
【ディジタル画】『坑夫』 54(No.612)
「曇つた空が、粉になつて落ちて来たかと思はれる様な雨が降り出した。ジャンボーは此の雨の中を敲き立てゝ町の方へ下つて行く」。
寒い。寒い雨の銅山。みんな囲炉裏を囲む。こっちから獰猛の仲間入りをしたためかどうか知らないが、「自分」へのからかいは消え、囲炉裏の話題はもっぱらジャンボーで持ちきりだった。
いろんな声が出た中で、こんなのがあった。
「全体ジャンボーになつたら何処へ行くもんだらう」。
私も気になる。
人は死んだら、何処へ連れて行かれるのだろう。
今の苦しい生活から逃れるために死を選ぶ人がいるとしたら、その人は、死の先に明るい未来でも描いているのだろうか。もっと苦しい生活が待っていると思わないのだろうか。
死とは何か。私には判らない。死の先に「あの世」という世界があるかどうかも判らない。判るのは、死によってこの世の全てのものとの関わりが断たれるということだけである。
囲炉裏を囲む獰猛衆も思いは同じ。人間は死んだら一体どこへ行くのだろうと不安に思いながらそれぞれ暖を取っている。
それが判らないから人は宗教にすがるのでしょう。しかし、宗教はそれぞれ抱えている悩みに対して常に正しい答えを持っているわけではない。あの世に行った人がこの世に戻ってきたためしなど一度もないのだから、あの世がどんな世界かは誰にも判らない。
みんな、想像たくましい人が想像たくましく描いた世界でしかない。そうなるともう、世の中はしっちゃかめっちゃかです。正しい道を唱える人が十人いたら十通りの正しい道ができます。そうなります。
だから、馬鹿は死ななきゃなおらないと言う。人間は、自分が正しいと思った道を馬鹿みたいに歩むようにできているんです。だいたい馬鹿という査定は誰が下すんですか?
何が正しいかは、その時に出会った人、出会った書物、出会った映画、出会った音楽、出会った漫画、その他心動かされた何かによってそれぞれ異なります。それらがこの世を生きた証となって、その人の人生を輝かせることになるのでしょう。馬鹿みたいにのめり込める何かがあるということは素晴らしいことだと思います。
【タイムラプス】9月2日(金)6:18〜10:14の韮山方面の雨空。29秒。
【新型コロナ】9/2(金)10:00現在(Yahoo!より)
新規感染者数→149,906(前週同曜日比 −71,026)
重症者数→555(前日比 −36)
伊豆の国市陽性者数→51(前日比 +26)(静岡県HPより)