いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

菜の花に恥じらひ寄せて富士の嶺(あ)

【きょうの一枚】空き地に咲く菜の花。

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 みかんを買いに行く途中の空き地に見つけた。代かきを待つ田んぼの向こうに小高い丘陵が見え、さらにその向こうに富士山が聳える。あいにくきょうの富士山は雲に覆われて、残念ながらその雄姿を拝むことはできなかった。
 朝日新聞コラム「天声人語」(2022/2/15)の冒頭は「春に向かう季節は、早朝という時間、夕方という時間を取り戻していくときでもある」で始まる。そして最後は「寒い日ばかりが続いても、梅の花はきのうよりきょう、きょうよりあしたと少しずつほころんでいく。長くなる日脚に、歩調を合わせるかのように」と結ぶ。
 いつもながら、うまいなあと思う。こういう文章を書きたいといつも思うが、いつも書けない。目標としているんだけど、ネタをストックしておく引き出しの量が圧倒的に違う。そう思う。今さら挽回しようにも余命幾許もない身ではカバーしきれない。だから諦めた。私には無理だ。書けない。
 でも、書きたいんだよね。このブログも、読んでくれる人に、これはうまいと言ってもらえそうな書き方をしたいと思っている。それを目指しながら下手なりに日々精進しています。歩みを止めたらそこで前進も途絶えてしまうかもしれないから。


【書】「我見」がけん(No.978)

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 「[仏]①自己の意見に拘泥する誤った見解。②自分かってな狭い考え。」(『旺文社漢字典』第2版)
 「我」は、ぎざぎざの刃先を付けた戈(ほこ)の形にかたどる。借りて「われ」の意に用いる。
 「見」は、人にひらいている目を付けて、ものを「みる」、ものが「みえる」意を表す。ひいて、人に「まみえる」意。転じて、現象・状態などが「あらわれる」意に用いる。


【ディジタル画】『吾輩は猫である』 97(No.420)

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 迷亭先生が帰った後、苦沙弥先生は書斎へ引き上げ、凡倉頭でいろいろ考えた。読心術を心得ている吾輩は主人の考えが手に取るように判るのである。
 苦沙弥先生が拱手して考えたのは「社会はどういうふうにして成り立っているか」ということ。いわく、「気狂が集合して鎬を削つてつかみ合ひ、いがみ合ひ、罵り合ひ、奪ひ合つて、其全体が団体として細胞の様に崩れたり、持ち上つたり、持ち上つたり、崩れたりして暮して行くのを社会というのではないか知らん」。
 来年度の新副区長をいまだに選考できないでいる自分の身に置き換えて、「社会」とはそういうものかもしれないとしみじみ共感を覚える次第。
 背景のぼかしに「エアーブラシ」を使った以外は、すべて「Gガッシュ」で描いている。


【タイムラプス】2月18日(金)8:10〜9:35の伊豆長岡の空。21秒。

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【新型コロナ】2/18(金)10:00現在(Yahoo!より)
新規感染者数→95,208(前週同曜日比 −4,478)
重症者数→1,469(前日比 +25)
累計死亡者数→21,259(前日比 +271)