いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

いつ散ると見れば眩き百日紅(あ)

 今日の北海道新聞コラム「卓上四季」を面白く読んだ。

 冒頭、森鴎外(パソコンで「鷗外」と打てるようになったのになぜそうしない。収まりが悪い)の『杯』という短編を紹介する。

 それは、こういう話だ。

 7人の少女たちがそれぞれに大きな銀の杯を持って、湧き水を飲みに出かける。遅れて一人の娘がやってくる。杯を持ってはいるが小さくて黒っぽい。先に着いていた少女たちは口々に「お前さんの杯は妙な杯ね」「変にくすんだ色だこと」などと言って、自分たちの銀の杯を使うよう迫る。だがその娘は「わたくしはわたくしの杯でいただきます」と毅然(きぜん)と断る。……

 その作品を引用して、「自らの意志を通すのは容易ではない。どうしても社会の風潮に流され、多数に同調してしまいがちだ」と展開し、国連児童基金(ユニセフ)による、日本の子どもの幸福度が世界最低レベルだと話をそっちへ持っていく。

 そして最後に哲学者鷲田清一氏の、「特定の者を排除する現象は、大人の集団形成の過程でも必ず見られる」との見解を導き出す。

 コラム子は、コロナ禍で、子どもたちが学校でのいじめや家庭での不和が深刻化していないかと心配する。

 私が学校現場で働く身として周囲を見渡す限りで言えば、そういう兆候は見られない。コロナ禍だからといって、ストレスを溜めているというふうにも見えない。

 日本の子どもの幸福度が世界最低レベルだというユニセフの見立ては、コロナ禍とは関係ない。コロナ禍になる前からそう言われてきた。

 何をもって幸福とみるかは人それぞれで判断基準が違うからなんとも言えない。お金をたんまり持っていて何不自由なく暮らししているのを幸せと見るか、お金がなくても、お下がりの服を着て卓を囲める団欒を幸せと見るかの判断は難しい。

 もし子どもが自分のおかれた環境を幸せと感じられないならば、それはたぶん身近の大人が幸せと感じていないからである。子どもの世界はまさに大人社会を映す鏡であるから、まずは大人が幸せと感じる環境を作り、それを子どもたちに見せてやらないといけない。コロナ禍、コロナ禍と騒いでいるのは大人なのであって、子どもは大人の真似をしているに過ぎない。周囲に同調して不安を煽るような行動は慎み、ここは、『杯』の第八の娘のように、「わたくしはわたくしの杯でいただきます」といきたいものだ。

 

【今日の一枚】庭のサルスベリ(百日紅)。

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 8月に入ってからポツポツ咲き出した庭の百日紅も、ここへきてようやくほぼ満開になった。

「百日紅」とはよく言ったもので、花期が長い。近所の百日紅は7月にはもう咲いていたが、今もなお咲き続けている。うちの百日紅は晩生(おくて)で、9月の今頃になってようやく花盛りを迎えた。この分だと10月になっても咲いているんじゃないかとつい期待してしまうが、さすがにそれはないでしょうね。

 咲き始めは写真右側の部分だけが咲いていたが、今は咲く領域を徐々に左側に移してきている。病気にかかって、きっと咲かないだろうと踏んで2本の枝を伐り落としたが、我慢して待っていたら、今頃はその枝にも花を咲かせたかもしれない。ちと早とちりだったか。

 

【書】「麗句」れいく(No.452)

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 「美しい文句」(『旺文社漢字典』第2版)

 「麗」は、鹿の角がそろって並ぶさまをかたどり、「うるわしい」意を表す。「句」は、曲がったカギに「口」が挟まれる形で、言葉を区切る意。白川文字学によれば、「口」は祝詞(のりと)をいれる器という。

 

【タイムラプス】9月13日(日)6:34〜9:16の伊豆長岡の空。20秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1305270815353569280?s=21