いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

このつぼけ化け人囃子こラツセラー(あ)

 『奥の細道』序文の模写を始めたら、図書館から本を借りて来なければいけないことが判った。

 現在借りているのが一冊。加えて『奥の細道』を借りるとなると計二冊。貸し出しは一人15冊まで可能だから借りられる冊数には十分余裕がある。のだが、どうせなら一緒に返し一緒に借り出したい。二冊同時に借りて、果たして制限期日までに模写できるだろうか。

 買った時は読むつもりでいても、日数を置くと読みたい気持ちが薄れていることがある。俗に、「積読」という。

 昔はそういうことをよくした。せっかく買ったのに読まないでただ積んでおく。だけど買ったことを惜しいと思わない。いずれ読むつもりでいるからと買ったことを後悔しない。

 本に囲まれていると、つい自分が偉くなった気分になる。そういう錯覚をよくした。そうして読まないで放っておく書籍の上にさらに読まない本が新たに積み重なっていく。馬鹿みたい。

 昔は知識はもっぱら書物から得た。書物以外に情報を得る手段はなかった。

 今は、YouTubeがある。

 今回、「津軽弁」のコーナーを設けるに当たって関連サイトをぐるぐる巡っていたら、Youtubeを使った解説の多いことに驚いた。

 説明はすべて自作自演のYoutube動画。文字による解説は、ほんの数える程度しかない。解説はことごとく解説者本人の話言葉だった。

 時代は変わった、という印象を持つ。一昔前のワープロのマニュアル本の厚さといったら、今見たら卒倒ものである。よくあんな分厚い解説書を読んだものだと我ながら感心する。当時は操作を覚えるのに必死に書言葉を読み込んだ。そしてそれが、ワープロソフトを自在に扱える最も近い出世街道だった。

 あの頃から手書き原稿が消え、ワープロソフトで作られた文書が配られるようになった。会議議案書はことごとくワープロの活字だし、テスト問題用紙もワープロで作られるようになった。5インチのフロッピーディスクが3.5インチに取って代わられる頃だったろうか。

 その頃から活字離れが口喧しく言われるようになる。若者の読書離れが著しいと騒がれた。ところが、実際はそれがスマホ普及に繋がり、たたんで新聞を読むサラリーマンの姿は満員電車から消えた。みんな新聞記事をスマホに入れて読むようになったのである。

 同時に電子書籍もスマホで読むようになり、町の本屋がバタバタ潰れていった。それを「活字離れ」と錯覚したのだが、実は活字離れどころか、活字をスマホで追いかける時代になったということだけの話で、活字離れでもなんでもなかった。分厚いマニュアル本の代わりにYoutubeがその代役をするようになっただけのことである。

 スマホがそろそろ出尽くした。街のスマホショップも陰り見えてきた。さて、これからのスマホはどっちの方向に向かっていくのだろう。注目して見守っていきたい。

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【書】『奥の細道』序文2(No.1,852)

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「予もいづれの年よりか片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず」(訳:私もいつの年からか一片のちぎれ雲に心奪われて漂泊の思いが募るようになった)。

「片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず」なんて、いい文章だと思うけどなあ。誰も褒めないから私が褒める。

 ダラダラと牛の涎のように続く文章もまんざら捨てたもんじゃない。酒をちびちび呑りながら長ったらしい文章を読むってのも一興だね。文章はスパンスパン短く切れば判りやすい文章になるかもしれないが、だからと言って切り過ぎるのもよくない。料理にはやはり包丁が必要だ。包丁で刻んで一手間かけるから味わいも深まるというものだ。

 

 【昭和の風景】津軽弁(No.572) 

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 絵手紙。津軽弁。

 「なして そたらに しずがる んだば」。

 「どうして そんなに (私のことを)構う んですか」の意。

 津軽弁には「そうするとダメ(そせばまいね)」的なマイナス思考表現が多いような気がする。やりたいことはやりたいんだけど、見えない中央集権の圧迫を感じて多少卑屈になっているのかもしれない。

 

【タイムラプス】令和6年8月3日(土)5:57〜7:39の伊豆長岡の空。25秒。

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