いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

木枯らしや坪庭の竹葉そわそわ(あ)

今日は二学期の終業式。

校長先生のお話は、高村光太郎の詩句「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」を引用して、自分の歩いた後には必ず道ができると信じて前へ進んで行こうと締めくくった。

私の場合はどうだろう。私が歩いてきた後に果たして道はできているだろうか。道ができているとすれば、どんな道だろう。

私は毎日ブログを書いている。書くことによって、今日の自分が何に関心を持ち、何を考え、どういうふうに過ごしたかを刻むことができると思うから。でも、それが私以外の人にとって何の意味を持つかといえば、おそらく何の意味も持たない。たまたま私が関わった日常のあれこれを書いているだけに過ぎないのだから、関わらない人にとってはそんなブログは何の意味もない。

ならば、どうしてブログを書くのか。それは、文字が連なる画面の向こうに、それでも読んでくれる人がいると思うから。アクセス数は「50」を行ったり来たりする辺りでさほど多くはないけれど、その数の中にあの人もこの人もいるかと思うと、やはり書かずにはいられなくなる。これも私の独りよがりに過ぎないのだけれど。

私が歩いた後にできる道は、ブログという足跡として残る。しかし、ブログに書いたことは歩いてきた足跡のごく一部に過ぎない。それ以外の書かれなかった部分ははるかに膨大である。そして、書かれた部分も書かれなかった部分もすべてひっくるめて私の人生である。

人は遅かれ早かれいつか必ず死が訪れる。そのいよいよのときが来たとき、私は何を思うだろうか。そのときにいい人生だったと言える人生を今送っているだろうか。ひたひたと古希が迫るにつれ、そう思うことが多くなった。

しかし、焦りはない。今は恬澹と心の欲するところに従うのみ。やりたいことをやればいい。そして、いつ迎えが来てもいいように心の準備だけはしておく。長生きはしたくない。金がかかるばかりだし、周囲からは煙たがられるし、ろくなことはない。のだが、こればかりは天のみぞ知る、である。

 

【今日の一枚】ホテル玄関脇の坪庭。

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今日の忘年会会場ホテルの玄関脇。ちょっとしたスペースに和風の坪庭をしつらえるだけで趣がずいぶんと違う。

我が家の玄関脇にも坪庭風にこしらえた、畳一枚にも満たない小さな空間があるが、毎朝出かけるときとか、帰宅したときとか、一瞥するだけで心が和みます。でも、これ、落ち葉を掃き取るのが結構大変。で、ズボラな私は掃き掃除を木枯らしに任せています。

 

【書】「冒」ボウ・おかす・おおう(No.338)

▼甲骨文は無し。

▼金文

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会意。もとの字は〓1に作り、冃(ぼう)と目とを組み合わせた形。冃は帽子の形であるから、〓1は頭に深く帽子を被(かぶ)り、目だけを出している形で、「おおう、かぶる」の意味となる。[説文]七下に「蒙(かうむ)りて前(すす)むなり」とあり、頭に兜(かぶと)をつけて進撃する、冒険する(危険を押しきって行う)の意味とする。冒死(死をおかすこと)・冒瀆(ぼうとく=神聖なものや清らかなものをおかしけがすこと)・冒犯(おかすこと)などのように、「おかす」の意味に用いる。

〓1(『超漢字』画像)↓

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【温泉】ホテル天坊。

ホテルの大浴場に浸かるつもりでいたら、忘年会の受付を頼まれて断念。

 

【タイムラプス】12月24日(火)5:56〜7:07の伊豆長岡の空。35秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2727485353975991/?d=n