最近、手書きの良さが見直されているそうだ。昨日(11/26)の福島民友新聞コラム「編集日記」で知った。
夏目漱石は筆まめで知られ、残っている手紙だけでも2,500余に上るという。漱石と同じ慶応3年生まれの親友正岡子規は、愛弟子の河東碧梧桐が天然痘で入院したお見舞いの最後に「寒かろう痒かろう人に会いたかろう」と書き添えたという。なんという思いやりの深い子規の言葉だろう。
これは、手書きだからこそ思いやりが伝わるのであって、スマホの活字ではそうはいかない。いや、言葉の言い回しで多少伝わるかもしれないが、やはり手書きの温もりにはかなわないでしょう。
ここへきて手書きの良さが見直されているというのは嬉しい限りだ。昨今の情報通信技術の発達は目を見張るものがあり、知り合いと連絡を取り合うのはもちろん、買い物の支払いまでもスマホで済ませるようになった。私もその恩恵に預かって、使って便利なことこの上ないが、こと温もりに関しては手書きに勝るものはないと思っている。
手書きは、その人そのものが字に滲み出る。それがいい。字の巧拙はどうでもいい。相手にまごころが伝わればそれでいい。
野口英世の母シカが英世に宛てた手紙を見ると、手書きの良さが如実に伝わってくる。これを読みやすいようにと活字に直してあったりするが、それはいささかやりすぎ。手書きの味わいがまるで伝わらない。たどたどしい平仮名で書かれてあって、それで何が書いてあるんだろうと時間をかけて読もうとするから、味わいがじわじわ染み込むんだと思う。<DiN2HURU8AALabv.jpg>
私がこういう字を書こうと思っても、まず書けない。これは野口英世の母だから書けるので、字を真似ることはできてもそれ以上のことはできない。母の、子を思う気持ちが、書かれた字の一字一字に籠もっているから感動を呼ぶのだと思う。
そのように、その人でなければ書けない字がそれぞれにあって、私はそういう手書きの字を、こういう情報通信技術の時代だからこそもっと大事にして欲しいと思っている。
【今日の一枚】注射器の刺さった甘夏。
この写真は11/22(日)に撮った。
たわわに実った甘夏も、いたずらな孫娘の手にかかると、こんなことになる。皮をむいた渋柿を軒下に干している間に、ままごと道具から注射器を取り出して、手の届く甘夏にぶっ刺していた。残念だが、こいつはもう食えないな。
【書】「杜若」とじゃく(No.524)
「①ツユクサ科の多年草。やぶみょうが。夏、白い花が咲く。②[国]俗に、かきつばたをいう。」(『旺文社漢字典』第2版)
「杜」は常用漢字外で、当然ながら、手元の『常用字解』にも記載はなし。ただ、「木」と「土」とにパーツを分解してみれば、成り立ちはおおよそ推察できる。「木」は大地を覆う木だし、「土」は、土地の神を祭るために柱状に固めた土のことであるから、同じく「もり」と読む「森」が山野に自生する木の集まりを示すのに対して、「杜」は人の手が加わった「もり」を意味するものと思われる。だから、鎮守の「もり」といった場合は、「杜」の字を当てるのが正しい。
「若」は、巫女(ふじょ=神に仕えて神のお告げを伝える女。みこ)が長髪をなびかせ、両手を上げて舞いながら神に祈り、神託(神のお告げ)を求めている形。のちに神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の口を加え、祝詞を唱えて祈ることを示す。ふりかざした両手の形が、今の字形では草かんむりの形になっている。神託を求めて祈る巫女に神が乗り移って神意が伝えられ、うっとりとした状態にあることが若である。→白川静『常用字解』
【タイムラプス】11月27日(金)5:41〜7:15の伊豆長岡の空。23秒。
https://twitter.com/aisakajiro/status/1332476826304663553?s=21