いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

短日や鏡に映る亡父の顔(あ)

 先週末、実姉から父の十七回忌との連絡があり、連休明けの今日、香典を現金書留で郵便局から送った。送り先は青森の実兄。そこに父母の位牌がある。

 青森の実家が解体されるときに、仏壇を兄の家に移した。兄の家は青森市街の住宅地にあり、父母が眠る先祖代々の墓は、私が生まれ育った貧しい漁村にある。兄は今も、お盆になれば墓周辺の草刈りをして墓を守ってくれている。

 父が亡くなったのは私が横浜の新しい高校に異動した年の秋だった。そうか、あれから17年経つのか。

 父危篤の報を受けて新幹線に飛び乗ったが、死際に間に合わなかった。実家で父の葬儀の準備をしているところへメールが届き、今度は同じ学年団の同僚の死を知った。

 青森で父の葬儀を済ませた足で神奈川に戻り、同僚の葬儀に参列した。慌ただしすぎて父の死とゆっくり向き合う余裕がなかった。

 父とは帰青のたびに碁を打った。父の打つ碁はお世辞にもうまいとは言えなかったが、私に負けるのが悔しいらしく、何局も相手をさせられた。大抵晩酌を呑む前から一局が始まり、打ち終えて碁石を片付け、母が用意してくれたつまみで晩酌をする段になっても、父は黙ったまま石音高く黒石を打って、さあ白石を打てと私に催促するのである。晩酌でいい加減になり、碁がめちゃくちゃになったところで一言「まま」と言って遅い晩飯が始まる。「まま」とは津軽弁で「ご飯」のことをいう。

 父は囲碁をどこで覚えたか知らない。ある年に帰青したら食卓の横に足付の五寸碁盤があって、私から「打ちましょうか」と声をかけて始まったのが父との対局である。以来、帰青のたびに父と碁を打つようになった。

 父の打つ碁は荒々しくて勇ましい。節だらけのゴツゴツした指に挟まれる石は、碁盤に当たるといかにも力強い音を出す。さすが元漁師を彷彿とさせる。打ち方は頑固一徹そのもので、隙間だらけに打ち込むと、来やがったなこのやろうとばかりに石を打ち返してくるから面白い。

 囲碁は大概私が勝ったけど、父は私と碁を打つのを楽しみにしていたようだ。そんな父が眠る墓に、いずれ私も入ることになるんだろうか。「へば」(津軽弁で、「では」)とでも言って再び碁を打つことになるんだろうか。

 

【今日の一枚】洗面所の鏡。

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 孫娘が、棚に置いてあった鏡を取ろうとしたら、手を滑らせて割ってしまった。それは洗面所の棚を作ったときに百円ショップで買ってきた鏡で、むしろ、よく今まで無事でいられたと思うくらいの代物だから、割れても痛くも痒くもない。まあ、怪我がなくてよかった。

 洗面所に鏡がないと何かと不便なので、翌日、修善寺のホームセンターでランタンを買うついでに鏡も買ってきた。そいつがこれ。裏面は2倍の大きさに映る。

 洗面所の鏡というと、大抵大きなものが立てかけられるが、うちの場合はこれくらいで十分。顔を整えられればそれでいい。

 

【書】「沖天」ちゅうてん(No.521)

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 「空高くのぼる」(『旺文社漢字典』第2版)

 「沖」の音符は中(ちゅう)。[説文]に「湧き揺(うご)くなり」とあり、水がわき出る様子とするが、むしろ水の深く静かなさまをいう語であるらしい。動きをうちに秘めた静かな状態をいう語で、沖虚(心がさっぱりしていること)・中淡(心が潔白で無欲なこと)・沖天(空高くのぼること)のようにいう。→白川静『常用字解』

 「天」は、人の頭の形。手足を広げた人を正面から見た形の大の上に大きな頭をつけた形である。人の体のいちばん上にある頭を意味する天を借りて、「そら」を天というようになった。→同

 

【タイムラプス】11月24日(火)5:39〜7:11の伊豆長岡の空。22秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1331361177734025216?s=21