いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

雨蛙見据うる前をローカル線(あ)

 クラスの子に、「先生、好きな人いる?」と訊かれた。突然訊かれて、その意図をはかりかねながら、「いるよ」と答えると、「何人いる?」と続けて訊かれた。

 「たくさんいるよ」と言うと「誰? 奥さん?」と食い下がる。その子の頭には「好きな人=奥さん」という等式ができているらしいが、私は即答できなかった。

 即答できなかったということは、私はそう思っていないということになるか。判らない。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。

 長い間夫婦をやってきて、子どもを3人育て、孫にも恵まれた。そんな私が、「奥さんのことを好きか」とストレートに訊かれ、ドギマギしている。即答できないのは、好きか嫌いかという単純な図式では測れない、積もり積もった複雑な感情が絡み合っているからだろう。

 知り合った頃は、確かにこの人と一緒に暮らしたいと思っていた。しかし、齢を重ねるうちに互いの本性も見えてきて、不満を漏らすことも多くなっていった。それでも夫婦を続けてきたのは、別々に暮らすよりは一緒にいた方が何かと都合がいいという打算が働いていたからだろう。

 ところが今は、私は伊豆、カミさんは横須賀と、夫婦を続けながら別々に生活している。これは何だろう。好きだから一緒にいる、嫌いだから別々に暮らすというのとは違う、何か得体の知れないものでかろうじて結ばれているようなのだ。今にも解けそうなゆるゆるの危うい結び目ではあるが。

 私も歳をとったけど、カミさんも歳をとった。そんな二人が今でも夫婦をやっているのは、そうすることが互いに都合がいいからで、新たな人生を築いていくだけのパワーも金もないからである。

 カミさんが伊豆へ顔を出せば、アリが家の中に道を作っている、冷蔵庫に卵がない牛乳がない、この前作っていったひじきが腐っている、胡瓜が干からびている、掃除機かけてんの?布団干してんの? と不満の総攻撃が始まる。

 そうなると私は、ああ始まったと、言わせるだけ言わせておいてスマホをいじる。すると、それがまたカミさんのイライラの種となって、ねえ、あたしの話、聞いてんの? とくる。人の充電器を勝手に使いながら何を言いやがる、人にOSのアップデートを頼んでおきながら何を言いやがる、とは言わない。言わないで、黙って庭に出て草をむしる。そのうち「じゃあ、帰るから」と言って帰ってくれるので、私のイライラもそれ以上は広がらない。

 これって、夫婦なんだろうか。遠く離れて別々に暮らして、たまに会うと、やることなすこと気に入らなくて、些細なことで腹を立てたりしている。

 カミさんは70になるまで地元で働くと言って、当面、伊豆へ来る気配がない。私は70まで働くのは勘弁と言いながら伊豆で独り暮らしを満喫している。

 最近は、無理して一緒に住んで窮屈に暮らすよりは、互いが干渉しない程度に距離をおいて、自分のやりたいことをやるという夫婦の形もあっていいように思っている。

 

【今日の一枚】ヤツデ(八手)の葉に止まるアマガエル。

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 一二三荘の駐車場の線路側にヤツデの茂みがあって、いつもそこの脇に、私の専用駐輪場みたいにしてスーパーカブを駐める。今日はそこにアマガエルがいた。これを「今日の一枚」に使おうと思ってiPhoneを出したら、ちょうど上り電車が来た。ついでに電車も撮ってしまえと構えたが、シャッターを押すのが遅れて、電車の行先の表示が切れてしまった。

 

【書】「丘陵」きゅうりょう(No.450)

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 「おか。小山。丘岡(きゅうこう)」(『旺文社漢字典』第2版)

 甲骨文の「丘」は三角のコブが二つで、「山」は三つ。これは判りやすい。

 「陵」の「阝(こざとへん)」は右側にきているが、現在と同じ、左側にきているのもある。白川静『常用字解』によると、このパーツは神が天地を上り下りするときの梯子(はしご)を意味するという。

 

【タイムラプス】9月11日(金)4:42〜7:17の伊豆長岡の空。38秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1304584401854984193?s=21