いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

生きてあること朝顔の露のごと

あやめ湯(17:20)2→4人。8,099歩。

写真は、伊豆長岡駅前郵便局。駅前とは言っているが駅前ではない。実際は駅から200mほど狩野川に寄った路地の中ほどにある。幅員3m弱の狭い路地で、えっ、こんなところに? という場所に建っている。5月25日午前10時16分ころ、ここで普通乗用車と歩行者の交通事故があった。

夕方、あやめ湯へ行く途中で、ハガキを出すのに郵便局へ寄った。ハガキを出すだけだったから別に郵便局でなくてもよかったが、家から下った坂の下の郵便ポストに入れ忘れた。ただそれだけのこと。だけど、そのことでたまたま偶然、郵便局前で交通事故があったことを知った。

郵便局の前には静岡県警のワゴン車が停まっていた。ハガキをポストに投函し、バイクをUターンさせようとしたら、立て看板を立てていた若い警察官と目が合った。立て看板には、先月この場所で起きた交通事故の情報を求める旨のことが書いてある。バイクにまたがりながら立て看板を見ていたら、何か情報を持っているかと訊かれた。いえ何もありませんとその場を立ち去ったが、交通事故に遭われたのはどういう方だったのだろう。まさかここで車にひかれるなんて思ってもいなかったに違いない。いえ私だって、いつ事故に巻き込まれるか分からない。そんなことをあやめ湯に向かいながら考えていた。

人生はすべて偶然の積み重ねである。たまたまこの世に生まれたのも偶然であれば、4月から修善寺に週三日勤めるようになったのも偶然である。30年前の8月12日午後18時56分、あの日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したとき、たまたま用事で遅れてその飛行機に乗れなかった人がいたという。かと思えば、その人のキャンセルによって得た座席に乗り込んだ人も一方でいる。

人の運命はどう転ぶか分からない。私も今はこうして生きてあるけれど、明日はどうなるか分からない。今日と同じように生きてある保証はどこにもない。突然の大地震で家屋の下敷きになっているかもしれないし、富士山の噴火で火山灰に埋もれているかもしれない。あり得ない空想のようだけれど空想ではない。そのXデーはまだしばらく先だとしても(そう願いたい)、これだけ交通網が発達した現代では、交通事故に遭う偶然は常に隣り合わせにある。だから私は、その運命がいつ自分に降りてきてもいいように、生きてできることをやれるうちにやっておこうと思っているのです。(あ)

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