いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

枯尾花風の彼方に光あり(あ)

 今日の朝日新聞「折々のことば」で、「です、ます」と「である」の文体について触れていた。

 科学技術史家の山田慶兒さんの文体を、コラム担当の鷲田清一さんは、「ものごとには特定の文体でしか書けないことがある。文体は宛先に左右される。ときには文法を外してしか書けないこともある」と解説されていた。

 そこで、私のこのブログの文体はどうかと考えてみた。

 私のブログは「である」調から突如として「です、ます」調になることがしばしばだ。小論や作文の指導では文体を常体か敬体かに統一せよと教えるが、そんなことはどこ吹く風の自由体である。

 要するに、書いているときの気分次第で「である」にしたり「です、ます」にしたりする。山田慶兒さんのように、意図あって使い分けているわけではない。なんとなく、「である」にしたい気分のときは「である」にするし、「です、ます」にしたい気分だったらそうするという、ただそれだけのことなのです。でも、論文とかのお堅い文章は別にして、楽しみながら書くというのはそういうことが許されるのだと思う。

 ブログを書くとき、私は画面の向こうに読んでくれる人の顔を思い浮かべる。こう書いたらどう捉えるだろうといつも考えながら書く。

 読んでくれる人の中には、現役の中学生がいることを知っている。中学を卒業しても引き続き読んでくれている高校生も知っている。最初に受け持ったクラスの教え子や、元同僚、高校時代の級友も大学の悪友も読んでくれていて、中には一度もお会いしたことのない方が「いいね」をくれたりする。

 そして、一日のアクセス数に一喜一憂する。たくさんアクセスをいただいた日は正直嬉しいし、それを励みによし頑張ろうと思う。逆に少ない日は、ちょっと寂しいけど、そういう日もあるさと自分を叱咤する。どっちみち、これからもブログは続けていこうという気持ちには変わりない。今やブログは私の日常生活になくてはならないアイテムなんです。

 ブログをやっていると、いろんな人との関わり合いを実感できるのがいい。また、あれもやろうこれも知ろうと前向きになれて、生活に張りができる。そして何より、書いていて楽しい。だから、こればかりはおいそれと手放すわけにはいかないのです。

 

【今日の一枚】枯芒。

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 向かいの休館中のホテル従業員用駐車場。枯れ芒が生い茂っている。手元の歳時記(ディジタル版)には、「枯れつくした芒だが、枯れた穂が風に吹かれているさまもまた趣がある」とあるが、今日のように風が強いとその趣もどこかへ飛んでいってしまいそう。

 歳時記には「枯尾花夕日とらへて華やげる 稲畑汀子」の作例があり、今日の光景はこの趣にいちばん近いが、なかなかこういう句は詠めそうで詠めない。時間的にちょうど西日が茂みの向こうに見え、それをかすかな希望の光と見たが、ちょっと作りすぎたか。ごにょごにょ余計なことを考えずにもっと素直に詠みたいものだ。

 

【書】「攻発」こうはつ(No.542)

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 「攻めあばく。人の秘密や悪事などをあばいてとがめだてる。」(『旺文社漢字典』第2版)

 「攻」は、工と攴(ぼく=攵)とを組み合わせた形。工は工作の道具。攴には打つの意味がある。工を用いて工作し、「器物を作る、おさめる」ことを攻という。のち攻は「せめる、たたかう」意味となる。→白川静『常用字解』

 「発」は、もとの字は發に作り、音符は癶(はつ)。癶はもと〓の形で、止(足あとの形で、足の意味)を左右そろえる形であり、出発するときの姿勢である。下部は弓を射る形。發とは開戦に先だってまず弓を射て開戦を知らせることをいう。→同

〓↓

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【ディジタル画】イワナ(No.96)

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 前回の「カジカ」に続き、矢口高雄著『ボクの学校は山と川』の挿絵を模写。「6B(鉛筆)」ツールだけで描いた。

 

【タイムラプス】12月15日(火)5:51〜7:06の伊豆長岡の空。37秒。

https://www.facebook.com/1298610339/posts/10224926418729903/?d=n

 

【新型コロナ】12/15(火)23:55現在(Yahoo!より)

現在感染者数→26,819(前日比+469)

新規感染者数→2,431(前日比+749)

死亡者数→2,701(前日比+53)