いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

ダメ俳句もどきもできぬ師走かな(あ)

【今日の一枚】新調した杵。

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昨日、田京のホームセンターで5%引きセールをしていたので買った。以前にヤフオクで買った杵がスカスカの穴だらけで、ちょっと打ち下ろし損じて臼のヘチを叩こうものなら、杵の木屑が搗いた餅に飛んで具合が悪かった。これで木屑が餅に混ざる心配はありません。

杵が売られていた同じ棚に、おもちゃのような餅搗きセットがあった。片手で杵を持ち、木魚を叩くようにぽくぽく搗くんだろうか。もうこうなりゃ餅搗きじゃないねえ。

鯉のぼりも大空を舞うような大きなものは見かけなくなったし、昔親しんだ本物の風物が消えていくのは、時代の趨勢とはいえ、なんとも寂しい限りである。

横須賀にあるカミさんの実家で餅搗きをしなくなってから3年が経つ。それまでは37年間、餅搗きを欠かしたことはなかった。餅搗きをしなくなったのは、義父が亡くなり、義母が東京の施設に入ることになったのが主な原因だが、義兄さんの話によると、実家に入ったカミさんが「こんな汚いもの」扱いをして、これまで餅搗きに使っていたセイロをあっさり捨ててしまったことが決定打になったようだ。あの二段重ねのセイロは味があったんだがなあ。

私は餅搗きのノウハウを全て義父から手ほどきを受けた。生前義父は、餅搗きは「ねり」ができて一人前とよく言っていた。「腰を入れてこうするんだ」と実際にお手本を見せてくれたりもした。なるほどそうするのかと、見て動きを覚えようとするが、実際にやってみるとなかなか思った通りにはいかない。そんなこんなでようやくコツらしきものをつかめたところで義父は旅立ってしまった。

伝統の技を引き継ぐというのは、先代の教えを後代が受け継ぐことで成り立つ。ところが今は、地域の伝統文化も学校教育に任せるきらいがある。現に、伝統芸能部なる部活がある高校も存在する。「余計なお世話」を学校が引き受けている格好だ。

地域文化の伝承は、学校の力を借りるのではなく、その地域の伝統に委ねるべきでしょう。学校教育がはびこる前は、どこでもそうだったように、地域で次世代を育てようという気運があった。今は、なぜか学校が地域の伝統をことごとく担っている。というか、地域が学校に教育の全てをまかせ切っている。それではいけない。それでは地域の文化が育たないし伝承されない。

地域とはなんぞや。地域の文化とはなんぞや。学校教育の役割とはなんぞや。なんぞや、なんぞや。いかん、いかん、晩酌の酔いがまわってきた。

今日は餅搗きの話から地域文化へ話題を広げたが、結論は出そうにない。いや、自分の頭の中では、地域文化と学校教育は切り離されるべきだという結論には届いているが、その論拠を筋道立てて述べるだけの思考力がない。要は酒酔い運転状態である。やめとけ、やめとけ。そんな状態でブログを書いたってろくなことはない。この続きはいつかまた書くとして、今日はここまでにします。おやすみなさい。

【書】「方」ホウ・かた・とつくに・みち・まさに(No.330)

▼甲骨文

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▼金文

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象形。横にわたした木に、死者をつるした形。これを境界の所に呪禁(じゅきん=悪邪を祓(はら)うまじない)として置いたので、「外方(遠く離れた国。とつくに)」の意味となる。方位・方角(ほうがく)・方向のように「かた」の意味に用い、また方法のように「みち、てだて」の意味に用いる。悪霊を追放するために方を殴(う)つことを放という。(後略)<『常用字解』より>

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】12月16日(月)5:49〜7:23の伊豆長岡の空。23秒。

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