いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

秋深き路地裏に見る摩訶不思議(あ)

 「天地人」は私の生まれ育った青森の地元新聞「東奥日報」のコラムだが、こうして青森を離れて伊豆でシニアライフを送るようになっても、「縦書きコラム」を通じて読めるのはありがたい。読むと、なんというか青森の匂いみたいものが感じられて、読まないではいられない。

 住む場所は違っても、心はどうしたって津軽と繋がっているんだなあと実感する。血が「じゃわめく」(津軽弁で、いてもたってもいられないような心の高まりの意)のだ。

 そんな今日の「天地人」に、市内の古書店のことが載っていた。

 私の高校時代の同級生が、青森駅から褌(ふんどし)の紐のように伸びるアーケード商店街の一角に古書店を構えたと聞いたのは一昨年のことである。

 コラムには、「読みたい本があっても、既に絶版になったりしていて、手に入らないことが少なくない。(中略)戦争中、十和田湖に陸軍の練習機が墜落したことにヒントを得たという三浦哲郎の小説『水の中の神話』も、青森市内の古書店が探してくれた」とあり、もしや、その古書店とは同級生のそれではないかとふと思った。

 そう思ったのは、同級生の彼が、私の在の村の郷土史家に昔の話を聞きに行くことになったと、店を立ち上げた年のクラス会で話していたのを思い出したからである。埋もれた昔の出来事を形に残しておきたいという思いがあったのだろう。その後、彼は秋田にまで足を伸ばし、昔の資料を漁っている由。私が大学時代に一時かじってみたいと思っていた民俗学を地元で実践していることに敬意を表し、今後の益ますの活躍を願わないではいられない。

 コラムは「今月は古書月間」と締めくくる。古書ではないが、現在、大仁商店街の書店で岩波新書のワゴンセールをやっていて、これまで3回ほど足を運んで、片っ端から32冊も買った。それでも1冊10円だから(100円じゃないよ)、向かいの米店の弁当1個分の支払いで済む。32冊分の知識が弁当1個分と同等に手に入るのだから買わない手はない。

 ここにも書籍のディジタル化の波が押し寄せているのだろうか。「鬼滅の刃」をはじめとする紙媒体の漫画の売れ行きは順調らしいが、一方で、岩波新書は加速度的に廃れ、若者には見向きもされなくなっているのかもしれない。

 人気漫画はどんどん若者に受け入れられ、岩波新書のような硬い読み物はどんどん読まれなくなっている。このことを青森に古書店を構える同級生は、どう見るだろうか。

 

【今日の一枚】はて、これはなんでしょう。

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 世の中には人知を超えた摩訶不思議なものがある。

 用があって立ち寄った郵便局裏のブロック塀の前に、こんなのを見つけた。はて、これは何のためにここにあるのでしょう。

 刺さっているのは、明らかにスコップの取っ手でしょう。反対側にもう一つこれと同じのが向き合ってあれば、さてはチェーンを張ってこの先は侵入まかりならんとでもしたかったのかと想像できるが、反対側には、これと同じのがない。あるのは、これ一個だけ。ねえ、不思議でしょう。

 誰が、何のためにこんなことをしたのだろう。子供のいたずら? いや、それはないな。通路にコンクリートを張るときに子どもがいたとは考えにくい。コンクリートを張る作業をしていた大人の誰かがやったんだ。きっと何かの用途があってそうしたはずだが、その用途が判らない。

 馬の手綱をつなぎ止めておくため? それじゃ取っ手が低すぎる。第一、馬っていつの時代の話よ。車が自動で運転してくれるような時代に、そんなものあるわけがない。う〜ん、どう考えても判らない。謎です。

 

【書】「考異」こうい(No.473)

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 「文字の異同を調べる」(『旺文社漢字典』第2版)

 「考」は、もとは杖をついた老人の姿で、「異」は、人が鬼を追い払うときにつける面を両手に持つ姿のこと。

 こうして書いてみると、老人が若者に、「どうだ判ったか」と教え諭すのに、若者は理解できずに顔を掻きむしっているように見えて愉快。

 

【タイムラプス】10月5日(月)5:19〜7:12の伊豆長岡の空。28秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1313242441714036736?s=21