いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

宝くじ売り子炎天ガード下(あ)

【今日の一枚】藤沢駅のガード下。

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昨日は、毎夏恒例の呑兵衛旅行の打ち合わせで藤沢まで出る。

少し早めに家を出て、藤沢駅周辺をぶらぶら歩いて待ち合わせまで時間を潰す。ガード下を通ったら、宝くじ販売の若いお姉さんが「サマージャンボ宝くじ、誰かに当たる7億円」と宣伝文句を繰り返していた。のぼり旗を立てて通りゆく人に向かって放つ声がいかにも投げやりで、こんな暑くちゃやってらんないよ誰も聞いちゃいねえしという気分を隠そうとしない。ビックカメラの帰りにもう一度同じ場所を通ったら、その若いお姉さんはいなくなっていた。のぼり旗だけガード下の低い天井につっかかったまま放ってある。どこかへ冷たいタピオカドリンクでも飲みに行ったか?

 

【書】「書」(No.203)

▼甲骨文

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▼金文

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聿(いつ)と者とを組み合わせた形。聿は筆を手(又)に持つ形で、筆をいう。者は曰(えつ=神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器である〓1(さい)の中に、祝詞がある形)の上に木の枝を重ね、土をかけてお土居(どい=土の垣。土塁)を作る形で、お土居をいう。者は堵(かき)のもとの字。古い時代には邑(ゆう=集落)の周囲をお土居で囲んで外からの侵入を防ぎ、お土居の中にはお札(ふだ)のようにして曰を埋めて呪禁(じゅきん=まじない)とした。そのお札にしるした神聖な文字を書という。(中略)書はのち「かく、ふみ、書物、文字、手紙」の意味となり、書法(文字を書くときの一定の方法、書きかた)によって書かれた字である書道の意味となる。書道は東洋の特異な芸術の分野である。<『常用字解』より>

〓1(手書き画像)

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私が書を本格的に習ったのは、留年が確定した大学4年目からである。どうせ4年で卒業できないなら、月謝が安いうちに片っ端から講座を履修してやれと、勢いで「書道講座」も時間割の中に入れた。当時の授業料は年間で、確か10万余だったと思う。アルバイトの学習塾講師の給金で十分お釣りがきた。

そこで一緒に「書道」も修得した。「書道」は国語の中学校教諭になるためには必修だった。そして、「書道講座」は高等学校芸術科目の「書道」の教諭になるための必修科目だった。私はその両方を修得した。だから、高校では「書道」を教えることができたし、中学校では一昨年、昨年と「書写」を教えた。

書の基本はN先生(平成14年逝去。享年78)に手ほどきを受けた。その頃、先生は昭和天皇の祐筆を担当しておられた。目の前で見ているこの字が、まさに天皇陛下もご覧になっている字なのかと思うと、それだけで身が引き締まる思いがしたものだった。

ある日の講座で先生は、「字の上手い下手がいちばん判るのは、チラシの裏に書いたときだ」と言われた。抵抗感がないから、つるんと筆が滑ってしまう。なるほどな、と思った。チラシの裏にきちんとした楷書を書ける人は本物だ。私は書けないからにせ物だ。そんな奴が賞状書きを頼まれるんだから、笑っちゃうよね。

あれからだいぶの時を経て、今こうしてタブレットで書を書いている。あの当時は、まさかタブレットなんてもので字を書く時代が来るとは思ってもみなかった。文房四宝を筆墨硯紙と言ったりするが、今や四宝をそろえなくともタブレットとタッチペンの二宝だけで書を楽しめるようになった。

使う道具が違っても書を楽しめるのは、筆墨硯紙を携えて満員電車で通った日々の練磨があったからだろう。そのときの下地があるからこそ、今また書を楽しめているのだと思う。そういう点では、3年も余分に大学にいたことは無駄ではなかった。むしろ、今ある私の基礎を形成してくれた貴重な期間だったと思っている。

 

【温泉】水晶苑。

大きな栗畑氏と3子置いて2局打ち、2局とも負け。前回との通算で3連続負けで4子局に陥落。その4子局でも3連敗を喫し、あれよあれよというまに元の5子局まで戻ってしまった。5子局に戻ってようやく一矢報いるが、次はまた負けと、今日は大荒れの碁でした。トータル●●●●●○●の1勝6敗。いかんな、感情が高ぶって手拍子で打っちゃってる。

 

【タイムラプス】8月1日(木)7:11〜9:12の伊豆長岡の空。30秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2433262230064973?s=100001436582002&sfns=mo