いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

向日葵の育ちて子らも育ちけり(あ)

【今日の一枚】学校のヒマワリ(向日葵)。

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校長先生と一緒に種から植えたヒマワリが、夏本番を待ちきれずに咲いています。

ヒマワリは太陽の動きにつれて花の向きを変えると一般にいわれるが、実際は蕾が花開くときだけで、そうでないときは、写真のとおり、向きはバラバラです。

それでもヒマワリが咲くと、いよいよ夏だなあと感じます。子どもたちも登下校にこのヒマワリを見ながら、早く夏休みが来ないかなあと思っていることでしょう。

ところで、このブログにたびたび登場する、世界の国からこんにちは君は、ユーチューブで田端義夫を聴き、三波春夫を聴く風変わりな少年だが、時に吉田拓郎の歌も聴くようで、覚えたての歌を私に歌って聴かせてくれたりする。

あるとき少年は、「先生、吉田拓郎の『夏休み』って知ってるら?」と言ってきた。もちろん知ってますよ。私も青春時代によく口ずさんでいました。

「あの歌に、♫麦わら帽子はもう消えた 田んぼの蛙はもう消えた それでも待ってる夏休み♫ってあるけど、麦わら帽子も蛙も消え、きれいな先生もいないのに、それでも待ってる夏休みって、どういう意味?」と訊かれ、はたと返答に困った。そうだねえ、改めてそう訊かれると不思議な歌だ。そんなことなんかちっとも考えないで、当時はノスタルジーをそそる歌として口ずさんでいたんだなあ。

絵日記つけて、花火を買って、トンボとりして、西瓜を食べて、水まきをして、そんなふうにして過ごした夏休みは、遠い幼い頃の思い出として今でも心に残っている。あのときの担任の先生、きれいだったなあ。今どうしてるだろう。懐かしいなあ……。

そんな思いは誰にもある。吉田拓郎にもあった。たくさんある夏休みの思い出の風景を、フォークを歌うようになってから思い出すがままに歌った曲、それが「夏休み」という曲だった。

誰にでもある夏休みの思い出だけど、一つ、吉田拓郎にしかない思い出がある。それは、「きれいな先生」だ。拓郎はきっとその先生のことが好きだったのだろう。私は担任の先生と理解したが、そうじゃないかもしれない。でも、そんなことはどっちだっていい。きれいな先生を吉田拓郎は好きだった。それでいい。そしてそれは拓郎にとって、ひまわり、夕立、せみの声、と同じく、幼い頃の夏休みを思い出すときの欠かせない要素だったのだ。

 

【書】「執」シツ・シュウ・とる・とらえる(No.179)

▼甲骨文

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▼金文

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幸と丮(けき)とを組み合わせた形。幸の古い字形は両手にはめる手枷(てかせ)の形。丮は両手を差し出している形で、両手の刑具の手枷をはめている形が執で、罪人をとらえるの意味となる。のちすべてのものを「とらえる」の意味となり、とらえるの意味から、手に取り持つ、「とる」の意味となり、また執行(とりおこなうこと)・執務(事務を取り扱うこと)のように「おこなう」の意味にも用いる。<『常用字解』より>

もともとは幸の形は罪人にはめる手枷の形だったという。それがなぜ「しあわせ」の意味で使われるようになったのかというと、手枷をはめられる程度の軽い刑でよかったね、命を落とさなくてよかった、運がいいという意味からきたのだとか。

甲骨文では、その意味合いを込めて、差し出した両手をクロスさせて書いた。金文の方は、丮のパーツだけですでに両手に手枷をはめられているような形に見える。

 

【温泉】一二三荘。

明日は、午後6時前に行っちゃいけないんだな。

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【タイムラプス】7月8日(月)4:27〜7:53の伊豆長岡の空。25秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2392289907495539?s=100001436582002&sfns=mo