いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

こだわりの賀状

今日は午前中からずっと賀状書きに時間を費やした。毎年のことながら、なんでもっと早く取りかかれないのかと思うが、こればかりは一向に直らない。昔からそうだった。何事も、やらざるを得ないぎりぎりのところまで追い詰められないと腰を上げないタイプだった。石橋をたたいて渡る慎重派というのでもない。言ってしまえば、ただ単に自堕落なだけなのだが。

版画用の絵の具を水で溶き、彫ったままにしておいた版木に塗る。その上にコピー用紙をあてがって、まずは試し刷り。馬楝(ばれん)でこすった紙をゆるりとはがし、版画の出来具合を確かめるときのドキドキ感が堪らない。それで、彫り残した箇所や、彫りが浅かったところを修正するのだが、今回は多少の彫りムラはあったものの、気にするほどでもなかったので、そのまま修正なしで年賀はがきに刷り込んでいった。

年賀状に木版画を用いるようになったのは、就職して初めて迎える正月からだが、そもそも、私が初めて彫刻刀を握ったのはいつ頃だったろう。はっきり覚えているのは、小学5年の図画工作の時間である。そのときはB4版(だったと思う)の板に、翌年のカレンダーを数人で分担して彫った。私は鋭く彫れる三角刀が好きで、切り出し刀を使うべきところも平刀で削るべきところも、全て三角刀を使った。V字の谷間が切れにくくなっても砥石で研いでは使っていた。

青森出身の棟方志功ヴェネツィアビエンナーレで国際版画大賞を受賞したのは昭和31年で、私が3歳のときである。その影響があって、学校現場で版画熱が高まったかどうかは定かではない。しかし、私が小学5年になるまでに既にその名を知っていたから、たぶんそれまで学校の先生から棟方志功の栄誉を幾度も聞かされていたのだろう。少なくともそのことで、版画を身近に感じていたということはあったかもしれない。

今こうして木版画の賀状にこだわるのは、小学5年のときに彫った版画への思いが下地にあることは間違いない。稚拙さは当時とちっとも変わらないけれど、これからもずっとこだわり続けていこうと思っている。徒歩6,736歩。

写真は、横須賀のカミさんの実家で35年使い続けてきた蒸籠(せいろ)と羽釜。竈(かまど)は、今は市販のものを使っているが、義父生前の頃は一斗缶を金鋏で切ったのを竈として使っていた。義父は、終戦後の焼け跡の生活を、平成になっても捨てきれない人だった。年の瀬や義父の教えしサバイバル(あ)

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