午前中に庭の草むしりを45L1袋分やり、昼食を摂って碁敵の大きな栗畑氏の到着を待つ。
碁盤をセットして待っている間、武宮正樹『一手の定石』(藤沢の古本屋で100円だった)を見ながら碁盤に石を並べていたら、定刻の12時半に栗畑氏がやって来た。
やって来たのは和室六畳の窓から見えるから、あとは玄関から勝手に上がって碁盤の前に座るのを待つだけ。
少し前までは来たことを知って玄関まで迎えに出たりしていたが、最近はそういうお客様扱いをしなくなった。回数を重ねるにつれて、私も向こうも互いに遠慮が溶けてきたというところだろうか。
どうせ玄関も開けっ放しだし、玄関を入れば和室の碁盤が見えるくらいの狭い家だから、それでいいんです。例えば昔の家で縁側に腰をおろし、近所の碁敵が茶をすすりながら打つ風景のように、そんなふうに気さくに碁を打つ感じがいい。
玄関を入った栗畑氏は、私が本を見ながら石を置いているところにつかつか寄って来て「そんなの見たって、(対戦)相手はその通りの手を打ってくれにゃ〜から、ちっとも勉強にならにゃ〜だよ」と、せっかくの私の碁勉強にケチをつけた。そして今日の対局は、まさに栗畑氏の言った通りの展開になったのである。
昨日の対局の終わり2局を5子で2勝しているから、今日の1局目を5子で打ち、勝てば次は4子局で打てると思っていたら、栗畑氏は最初から4子でいいと言う。それはしめしめ、ならばと4子で始めた1局目だったが、これが見事に粉砕。2局目も3局目も続けて4子置いて打ったがことごとく粉砕され、あっという間に5子局に転落。その5子局も3連敗して、あれよあれよという間に悪夢の6子局に逆戻りしてしまった。
今日はダメだ、まったく勝てないとぼやくと、「そういうときもあるさ。本は正しいことを書いているかもしれないけんど、囲碁は人間同士がやるもんで、そのときの気持ちというか感情がぶつかるだから、うまくいかないときは何やってもうまくいかないだよ。だから囲碁は面白いんだけどね」と栗畑氏は慰めを言ってくれるが、こっちの気持ちは外の雷雨のように乱れまくって収まりがつかない。
それと察し「今日は、もうやめとく?」と言う栗畑氏に、「いえ、やります。どうせ今やめても外は雨だし、どっちみち湯屋へ行けないから……。お願いします」と続行を願う。
それで始めた6子局は、最初の1局を落としたもののあとは3連勝。いやあ、やっと勝てました。これで5子局に戻れます。
今日の戦績は、締めて●●●●●●●○○○の3勝7敗でした。
【今日の二枚】庭に降った雹(ひょう)。
大きな栗畑氏と碁を打っていたら、突然雷が鳴り、土砂降りの雨がバラバラとものすごい音を立てて屋根を叩きつけた。栗畑氏とすごい降りになったねえと話し、一戦終えてトイレに立った栗畑氏が、「なんだこれ、庭が白くなってるじゃあ」と開け放した玄関ドアの外が白くなっているのを見て言った。「なんだあ、こんな時期に雪かあ」と私も立って外に出た。そうしたら、庭に積もっていた白いものは雹だった。つまんでみたら直径1cmほどの雹。いやあ、驚きました。
【書】「競」キョウ・ケイ・きそう・せる(No.114)
竟(きょう)を二つ並べた形。竟は言と兄とを組み合わせた形で、兄は祝(はふり=神に仕える人)。言は神に誓って祈ることば。竟は言を頭に戴(いただ)いて祈る祝で、二人並んで祈ることを競という。並んできそう(競り合う、争う)ようにさかんに祈ることから、「きそう、せる」の意味に使う。二人並んで舞い、その舞楽を神に捧(ささ)げることを巽(せん)という。神事には二人並んで行うという形式をとることが多かった。
お尻をつんと突き出して、ふりふりダンスをしている二人の「クレヨンしんちゃん」といったところか。そんなユーモラスなイメージのまま書いた。
新字体の字形とは向きが逆だが、他の甲骨文には現在の向きの字形もある。楷書の書体を作るときに、二人の舞い手の手と足を逆にした方がバランスのいい字になるから、そう書くようになったのだろう。
【温泉】一二三荘。
今日は混んでいた。12個ある脱衣所の棚が全部埋まっていた。こんなの初めて。ちょうど宿泊客の子どもたち(横浜のスイミングスクール)の入浴時間だったみたい。
【タイムラプス】5月4日(土)7:14〜9:07の伊豆長岡の空。28秒。
https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2279050862152778?s=100001436582002&v=i&sfns=mo