いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

晩酌の菜は春早々の苦味かな(あ)

今日、卒業式で送辞を読む子が登校した。

登校の生徒は正門をくぐり、左にグランドを見ながら部室棟横を左折し、職員室前を通って昇降口へと向かう。職員室の窓は170cmの背丈の子の顔が横切るのが見えるくらいの高さにあるが、送辞を読む子はその丈に達しない。で、スーパーマリオよろしくぴょんぴょん飛び跳ね、登校したことを職員室にアピールする。久々の登校が嬉しくて仕方がないといったふうだ。

学校が臨時休校になってから今日で8日目になる。自宅待機を強いられる子たちも、そろそろやることがなくなって、時間を持て余している頃かもしれない。みんなどうやって毎日のあり余る時間を過ごしているのだろう。夏休みとかだったら普通に部活動があるのに、今回の臨時休校ではその部活動もできない。臨時休校からおそらく引き続く春休みも部活動は禁止だ。当然ながら、その間予定されていた公式試合はすべて中止。

何もするな、ただ家でじっとしていろと言われても、限度というものがある。こんな、いわば軟禁状態がいつまで続くのか。今、学校はどうなっているのか。そんな情報がまったく入ってこない中で悶々と日々をやり過ごさなければいけない身はどんなに辛かろう。

今の子どもたちは学校を中心に生活が回っているが、学校がなかった昔むかしの子どもたちはどうやって毎日を過ごしていたのだろう。野山を駆け回りながら、あるいは野良仕事を手伝いながら、将来にどんな夢を抱いていたのだろう。そんなことをふと思ってみる。

何もしなくても年を重ねるだけで体が大きくなり、大人として世間から見られるようになり、配偶者を得て家族を築き、子どもをいっぱしの人物に育て、そして還暦はめでたいとよいしょされてこの世から消える。

こんな人生があったとして、今の子たちはそれでいいと納得するだろうか。おそらく納得しないだろう。実際はそんな単純な図式で表せないが、まかり間違えば、そういう世に生まれた可能性もあったことを思うと、たまたま今の時代に生まれたことの幸せを噛みしめないといけない。

少なくとも私は、今のこの時代に生まれたことを幸せに思う。歴史を知る範囲でいえば、生まれたかった時代に生まれたのだと思う。例えば赤紙召集令状が届き、有無を言わさず戦場に駆り出される時代に生まれたとしたら、目も当てられない悲惨を味わったことだろう。それがないだけでも私はラッキーだったと思う。だが、その裏で、あの時代を生き抜いた親がいたからこそ今の私があるのだとも思う。

人の運命は、いつ、どこで、どうなるか判らない。いつの時代にあっても生き抜くこと、それが自分のためでもあり、子孫のためでもあり、ひいては未来の社会のためでもあることを信じてやまない。

 

【今日の一枚】プチヴェールとサバ缶炒め。

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これ、昨日の晩酌のおかず。そして、その余りが今日の弁当のおかずになる。プチヴェールは先週フィリピンから来たお客さん用に「まごころ市場」で買ったやつ。買って10日以上経つのに、そのまんまの新鮮さを保っている。日持ちのいい野菜だ。

臨時休校で給食がないため、毎日弁当を作って出勤する。その毎日の弁当のおかずは、前の日の晩酌に作ったおかずから見繕う。そこへ、たまに卵焼きを作って入れたり、ひじきなどの出来合いの惣菜を加えたりする。

ご飯は、炊飯土鍋で炊いた2合を4日分に分けて詰める。この時期はタッパーに分けて冷凍せず、そのまま土鍋に入れておいても腐らない。今週はあさり炊き込みご飯を作って、それを4日間弁当に詰めた。炊飯土鍋はおこげができるのがいい。それを、北島三郎「風雪ながれ旅」を口ずさみながら弁当に詰めるのである。

 

【タイムラプス】3月12日(木)5:54〜7:36の伊豆長岡の空。25秒。

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