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いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

父の日や父も集ひしいたやの木

写真は、日曜に行われたミニバスの試合会場となった小学校。校庭の真ん中に大樹がそびえているのに心動かされて撮った。

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何の樹だろう(後で小学校のホームページを見てケヤキだと知った)。樹齢は何年くらいだろう(これはホームページで触れていなかった)。
それにしても立派な樹だ。小学校の沿革によると、開校は明治6年。大正12年の関東大震災で校舎は全壊したとあるが、そのときはこの樹はここにあっただろうか。大正12年といえば今から93年前。現在の樹の大きさから推して樹齢百年以上はありそうだ。さらにそこから50年ばかり遡ればこの小学校の開校の年に当たる。樹齢150年とすれば、このケヤキの大樹は明治の開校以来ずっと地元の子どもたちの成長を見守ってきたことになる。
校庭の大樹に思いが行ったのは、それと同じ風景が私の通った小学校にもあったから。
私は青森の貧しい漁村に生まれ、地元の小学校に入学し卒業した。漁村には陸奥湾からの海風を避けるように屋根を低くして建てられた家が国道4号線に向かい合って並び、国道の山側の家々の庭を舐めるように東北本線が走っていた。村にはトンネルが2つあり、そのトンネルとトンネルとに挟まれたところが一つの村、といった按配である。
小学校に正門はなく、東北本線の下のガードが正門の役目を果たしていた。そして、そのガードを潜って出た先が校庭で、校庭を横切った向こうの校舎の手前にイタヤカエデの大樹はそびえていた。
地元の人はそれを「いたやの木」と親しみを込めて呼ぶ。校庭にこんなでかい樹があって、運動会のときなどはさぞかし邪魔だったろうと思われるかもしれないが、そんなことはまるでない。逆にそれをうまく利用していた。万国旗のロープはそこから伸びていたし、木の下はさまざまな競技に使う用具置き場になっていた。対抗リレーでは木陰を走り抜けたら順位が入れ替わっていたというドラマチックな展開の場にもなった。
6年のとき、卒業文集を作るにあたって、文集のタイトルをどうするかクラスで話し合ったことがある。私は、これしかないと自信満々で「いたやの木」を提案し、当時の担任も強く後押ししてくれたのだったが、最終投票の結果は大差で「思い出」に決まり、がっかりしたことを覚えている。文集に、どういった内容を書いたのかさっぱり覚えていないのに、そんなことだけははっきり覚えている。
私の通った母校は2年前の平成26年に138年の歴史に幕を閉じた、と風のたよりで聞いた。樹齢300年ともいわれるイタヤカエデは、今はどうなっているだろう。まだ葉を茂らせているだろうか。私の実家がまだ解体される前に見たときは、老いさらばえた枝を支柱に支えられて痛々しかった。命を終える日は近いかもしれないと思ったものだ。
今は校舎はなくなったとしても、せめてこのいたやの木だけは私の心のシンボルとして、もう少しそこに生きていて欲しいと願うばかりである。(あ)
長岡南浴場(18:42〜19:13)2→3人。今日はあやめ湯の定休日。前回同様、スキンヘッド氏と一緒になった。が、風呂場にスキンヘッド氏の競輪仲間がいて、スキンヘッド氏はもっぱらそちらの方と話をしていた。

5,562歩。