いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

教え子の五十路と聞くや年忘れ

一週間前、最初に担任をしたクラスの教え子から忘年会への誘いがあった。今年の新年会を渋谷でやったときのメンバーで、今年は忘年会になったのでぜひ参加をと言う。そのうちの三人は去年4月にバイクで伊豆へ遊びに来てくれてもいた。
教え子から声がかかるというのは嬉しいものである。二つ返事で参加しますとメールを返し、今日、横浜西口の「さがみ」という居酒屋までのこのこ出かけた。今年の新年会のメンバーのうち、一人が都合が悪いとのことで欠席し、その代わり新年会に来れなかった一人が後から駆けつけてくれた。その子は大きなマスクで顔が半分隠れていたので、どんな顔だったか最初は思い出せなかったが、マスクを外して「お久しぶりです」と挨拶されたらたちどころに思い出した。
高校を卒業してから33年だとメンバーの一人が言った。そうか、もうそんなに経つんだね。今年50歳になった教え子たち。50歳のいい小父さんになった今でも「その子」と呼んでしまうのは教員の悲しい性です。でも、そう呼ばせてください。迷惑かもしれなけれど、私にとってあなたたちはこの先いくつになっても教え子だし、私が初めて担任を持った思い出の濃い人たちなんです。
当時は新しい高校を100校新設するという、いわゆる神奈川100校計画の真っ只中で、1クラス45人のクラスが1学年で12クラス、全校で36クラス1,620人というマンモス学校がいくつも誕生した時代だった。体育館での全校集会は壁際までびっしり埋まり、修学旅行も6クラスずつ半分に分けて実施されたりもした。
修学旅行は、とにかく人数が多いから宿を確保するのが大変だった。それで前半6クラス、後半6クラスに分けて、一方は岩手県宮古、もう一方は秋田県田沢湖に二泊し、中日にせえので入れ替わるなんてことをやった。人数が多いがゆえの不自由さもあったが、それ以上に怖いもの知らずの若さがあった。
余談になるが、私が囲碁を覚えたのはこの修学旅行中である。修学旅行では消灯時間が決められ、時間になると教員が各部屋を回って消灯を促す。その後生徒は部屋から外に出てはいけないことになっていて、見張りに教員が複数で廊下に待機する。そのときに私と組んで見張りをした相棒が囲碁に詳しい人で、その人が長い廊下の真ん中に碁盤を置いて私に囲碁を教えてくれたのだった。時折、部屋のドアをこっそり開けて廊下の様子を伺う子がいて、ちっ、まだ居んよと恨めしげにつぶやく声を聞きながら、寝ず番をしたっけなあ。(あ)

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9,452歩。