詩の同人誌『詩人会議』が届いた。発行は毎月10日だから発行日よりもだいぶ早い。いけね、まだ半分も模写してない。
模写は、とてもいい勉強になるのだが、時間がかかりすぎる。
詩が模写に適しているのは、まず、句読点の表記がないことが挙げられる。次に、ひらがな、カタカナ、漢字の表記方法が割と大雑把。ひらがなにすべきなのか漢字にすべきなのかが曖昧。こういう時はひらがな、こういう時はカタカナ、またこういう時は漢字といった区別がない。こういう使い方をしなさいというルールがあるようでないようで。
だから、たとえば「とうといいのち」という表現があったとして、「尊い」なのか「貴い」なのか「とうとい」なのか。「いのち」なのか「生命」なのか「命」なのか、判断に迷うことがしょっちゅう。
結果、詩を書いた人がどういうつもりで書いたかなんてどうでもいいと思うようになった。読む人が勝手に解釈すればいいと思うようになった。書いた人の意思と読む人の思惑が違ったって構うもんか。読む人の心にすとんと落ちればそれでいいのよ。それが、読むっていうことなんじゃないの?
【書】『嵯峨日記』 17(No.1,981)
「晦日 高館聳天星似冑、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人とイへ共不至其地時は不叶其景。」
(訳:三十日 「高館ハ天ニ聳エテ星冑ニ似タリ、衣川ハ海ニ通ジテ月弓ノ如シ」と『本朝一人一首』にはあるが、自分が見たこの地の風景とはだいぶ違っている。古人といえども、実際の土地に行かないと、その土地の風景にふさわしく詠むことはできないもののようだ。)
とは言ってもねえ。芭蕉は「日々旅を栖とす」と考える人だもの。
芭蕉という人は、何でもこの目で確かめないと気がすまない人だったのかもしれません。
【昭和の風景】津軽弁(No.681)
「まま あまらがさねで け。」
「ご飯を 残さないで 食え。」の意。
「け」を「食てまれ(食ってしまえ)。」に書き換えるつもりで、とんと忘れてた。
【タイムラプス】令和6年12月6日(金)
しまった。撮り忘れた。