【書】『おくのほそ道』69(平泉3)(No.1,927)
「偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵どもが夢の跡 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良 」
(訳:それにしても、義経をはじめとして、よりすぐった正義の士たちがこの高館にこもり、華々しく戦ったのだが、その功名も、思えばただ一時の短い間のことで、いまはその跡はただ草むらと化している。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」だなあと笠を敷き腰をおろして、いつまでも懐旧の涙にくれていた。 夏草や兵どもが夢の跡(いま見れば、このあたりは、ただ夏草が生い茂っているのみだが、ここはむかし義経の一党や藤原の一族たちが、あるいは功名を夢み、あるいは栄華の夢に耽った跡である。だが、そんな功名・栄華もむなしく一場の夢と化して、いまはただ夏草が茂っているばかりである) 卯の花に兼房みゆる白毛かな(このあたりには、真っ白い卯の花が咲いているが、卯の花を見るにつけ、白髪の兼房が義経の最期にあたり、奮戦しているさまがしのばれ、哀れを催すことだ) 曾良。)
芭蕉一行が松島にとどまらずに平泉まで脚を延ばしたということは、平泉に訪ねるだけの文学的価値を見出したからだ。
「夏草や兵どもが夢の跡」。かつての義経軍団が軍戦した場所は、いまは草むしている。敬愛する杜甫の「国破れて山河あり…」の漢詩のフレーズが自然と口ずさまれるのは、そこが平泉だからだ。
いい句が生まれた。平泉まで来た甲斐があった。
それに触発されて門人・曾良も一句。「卯の花や兼房みゆる白毛かな」。こっちのほうは、「卯の花」と「兼房の白毛」がつきすぎていけない。芭蕉の目指す「かるみ」とは程遠い。上手いけどね。
【昭和の風景】津軽弁(No.627)
絵手紙。「こいが いじばんすたの よでこ でし。」
「こいつが いちばん下の 末っ子 です。」の意。
青森・黒石観光協会<人物編>には、長男を「あんこ」、次男を「おんず」、末っ子を「よでこ」、赤ちゃんを「びっき」と呼ぶ、とある。うちでは父の弟のことを「おんちゃ」と呼んで「おんず」という呼び方はしなかった。
同じ方言でも、使われる地方と使われない地方があったみたい。どうしてそういうことになったかは判らない。
方言は、使われる地方と、使われない地方と、使ったり使わなかったりする地方の、3種類があるみたい。
そんなことを知ったところで何の役にも立たないけれど。
【タイムラプス】令和6年10月13日(日)7:00〜8:13の伊豆長岡の空。31秒。
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