いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

秋曇交通安全幟旗(あ)

【今日の一枚】秋の交通安全運動

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 朝7時から交通安全の旗振りに出る。
 台風一過の爽やかな秋空のもと、と言いたいところだが、長袖なしではちと肌寒いくらいに冷え込んだ。参加した皆さんも長袖の人が多かった。
 7:00〜7:30までの30分間だが、沿道に立ってただじっと交通安全の旗を持っているのは辛い。こういうときは何を考えているか。
 俳句を捻っているのである。ブログをアップせずに家を出て来たので、放ったらかしのままのブログにつけるタイトル(俳句もどき)を、通る車の列や背後の山並みを眺めながら考えているのである。
 俳句は相変わらず下手だ。自分でも下手さ加減はよく判る。数年前の作品を見たりすると、なんて下手糞なんだと落ち込むことしきりだ。なに格好つけちゃってんの? と耳が赤くなったりする。
 でも、当時思ったことを振り返って、なんて下手なんだと今思えるということは、当時の作品を下手だと認識できる程度まで進歩はしているのかな。決して上達しているとは思わないけれど。
 とまれ、そんなふうにして下手なりに作り続けていくしかないのかな。たとい誰も共感しなくても、うたいぶりが独りよがりだったにしても、それが生きた証になるならば、いいでしょう、作り続けましょう。
 新型コロナがこんなに蔓延するなんて、ウクライナがここまで混沌とするなんて、プーチン大統領がなんであんなに強気でいられるのかなんて、みんなみんな今を生きていなければ判らない。
 10年前に何が起こったか判ってもきょうは何が起こるか判らない。そんな中で今何を思っているかを書き残すことはそれなりに意義があることだ。書いたものが残っていなければ、そのとき何が起こって何を思っていたかを知る術がない。
 思いは言葉として書き残しておかなければ後から振り返ることができない。書き残す言語を持たない民族が、歴史の舞台から消え去っていった例は枚挙にいとまがない。
 人間には寿命がある。100年も生きれば御の字だ。しかし、寿命が尽きたときにその人の書いたものが残っていれば、それがこの世に生きた証となって世紀を超えて永劫に残る。私はその生きた証を何かしらの形で残したいと思っている。私がブログを書き続けるのはその一念があるからでもある。


【書】「宴居」えんきょ(No.1,191)

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 「家でのんびりしている。閑居。=燕居(えんきょ)」(『旺文社漢字典』第2版)
 「宴」は、宀(家)と、音を表す〓(えん。宴から宀を取り除いた形。やすんじる意→安)とで、家で安んじ楽しむ意。ひいて「うたげ」の意を表す。
 「居」は、尸(しり=尻)と、音を表す古(こ。「きょ」は変化した音。よる意→拠)とで、しりを落ち着けて動かない意、ひいて「いる」意を表す。


【ディジタル画】『坑夫』 73(No.631)

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 「自分」は初さんの後を追って穴倉へと降りて行く。
 「梯子の幅は狭い。段と段の間が頗る長い。一段さがるに、普通の倍は骨が折れる。そこへもつて来て恐怖が手伝ふ。さうして握り直すたんびに、段木がぬらぬらする。鼻を押し附ける様にして、乏しい灯で透かして見ると、へな土が一面に粘いてゐる。上り下りの草鞋で踏附けたものと思はれる」
 「段木」に注解はないが、おそらく丸太に溝をこしらえて、そこに足を引っ掛けるようになっているものらしい。普通の梯子もかけられないくらい狭い穴を降りていく。そんな段木を下る途中で下を覗いたからたまらない。「急にぐらぐらと頭が廻つて、かたく握つた手がゆるんできた」。よせ、手を離したら落っこちて死ぬぞ。


【タイムラプス】9月21日(水)5:20〜6:28の伊豆長岡の空。34秒。

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【新型コロナ】9/21(水)10:00現在(Yahoo!より)
新規感染者数→31,747(前週同曜日比 −55,804)
重症者数→299前日比 −1)
伊豆の国市陽性者数→37(前日比 +29)(静岡県HPより)