いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

小さき手に茹で唐黍の折れる音(あ)

【今日の一枚】きのう茹でたとうもろこし。

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 6本茹でて、2本食って、残りを大磯に戻る孫娘に持たした。芯の先の実まで食ってくれたかななあ。


【書】「前夕」ぜんせき(No.1,159)

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 「前の晩。前夜。」(『旺文社漢字典』第2版)
 「前」は、刀(刂)と、音を表す〓1(上に止」下に「舟」で、せん。〓2(前から刂を取り除いた形)。そろえる意→揃)とで、切りそろえる意を表す。剪の原字。のち(〓2。靴をはいて行く、「すすむ」意、ひいて「まえ」の意の代わりに用いる。
 「夕」は、欠けた月の形にかたどり、もと「つき」の意、ひいて「よる」の意を表した。もと「夕」と「月」とは同じ字であったが、「月」で「つき」を表し、「夕」で「よる(夜)」を表すようになった。さらに「夜」の字ができ、「よる」と区別して、ゆうぐれ、「ゆうべ」の意に専用することになった。


【ディジタル画】『坑夫』 41(No.599)

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 長蔵さん一行は目的地に着いたが、あてがわれた飯場がそれぞれ違った。
 「一膳めし屋から突然飛び出した赤い毛布と、夕方の山から降って来た小僧と落ち合つて、夏の夜を後になり先になつて崩れさうな藁屋根の下で一緒に寝た明日は、雲の中に半日かゝつて、目指す飯場へ漸く着いたと思ふと、赤毛糸も小僧もふいと消えてなくなつちまふ」
 これまでの経緯をかいつまんで言うと、そういうことになる。たったこれだけで収まるところを漱石先生は延々とここまで延ばしてきた。そして言う「これでは小説にならない」。
 ここに漱石先生の小説観が出ていて面白い。
 「然し、世の中には纏まりさうで、纏らない、云はヾ出来損ひの小説めいたことが大分ある。……(中略)……此赤毛布流に、頭も尻も秘密の中に流れ込んで只途中だけが目の前に浮んでくる一夜半日の画の方が面白い」
 この先、どういう展開になっていくのか自分でも判らないというのは、本音だと思う。だから小説は面白いし、漱石先生も毎日書きながらそれを楽しんでいたのではないだろうか。
 昨今は、忙しすぎて時間が取れないのかどうか知らないが、話を要約してくれる Webサイトが人気らしい。新し物好きの私としては是非とも試さねばと思って試したが、あまり得るものがなかった。それで登録しなかった。
 サイトでは、時間をかけずに手っ取り早く教養を身に付けられるところを売りにしているようだけど、要約の技術はことほどさように簡単に身に付くものでもない。やはり自分で苦労して身につけるべきものだと思う。逆に、苦労するからこそ身につく質のものだと思う。
 苦労は自分を育てる肥やしになる。
 人生にはいくつかの分かれ道があって、右へ行くと楽な道、左へ行くと険しい道があるとする。どっちか選ばなければいけないとなったとき、私は常に険しい道を選ぶ人でいたいと思う。
 どうせ歩くなら楽な道のほうがいいに決まっている。しかし私は、それでもあえて険しい道を選ぶ。カミさんはそれを根っからの貧乏性だと呆れ顔に言う。「金は天下の回り持ち」と私が言っても、あたしんとこへ回ってきた試しがないと不貞寝する。

 世の夫婦はそれが相場というものだ諦めろ。


【タイムラプス】8月20日(土)7:14〜9:20の伊豆長岡の空。31秒。

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【新型コロナ】8/20(土)10:00現在(Yahoo!より)
新規感染者数→261,0529前週同曜日比 +92,222)
重症者数→627(前日比 +17)
伊豆の国市陽性者数→93(前日比 −28)(静岡県HPより)